〔『正法眼蔵』原文〕
大寂いはく、「如何即是シュオソクゼ《如何にして即ち是ならん》」。
いまの道取、ひとすぢに這頭シャトウの問著に相似せりといへども、
那頭ナトウの即是をも問著するなり。
たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。
われに親友なるはかれに親友なり。
「如何、即是」すなはち一時の出現なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
馬祖が言った、「ではどうすれば良いのですか」。
( 大寂いはく、「如何即是」。)
この言葉は、ただここの坐禅のことを問うているようであるが、
向こうの作仏のことも問うているのである。
(いまの道取、ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども、
那頭の即是をも問著するなり。)
言うならば、親友(坐禅)が親友(作仏)に出会う時を知るべきである
ということである。
(たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。)
自分にとって親友であるのは、
相手にとっても自分は親友なのである。
(われに親友なるはかれに親友なり。)
如何の坐禅が即是の作仏と同時に現成するのである。
(「如何、即是」、すなはち一時の出現なり。)
親友(坐禅)が親友(作仏)に出会う時を知るべきである『第十二坐禅箴』12-3-5b
合掌
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