〔『抄』私訳〕
「大寂いはく、『如何即是シュオソクゼ』。いまの道取、ひとすぢに這頭シャトウの問著に相似せりといへども、那頭ナトウの即是をも問著するなり」とある。
これは、南嶽は「坐禅豈得作仏耶」(坐禅豈に作仏を得んや)と言って、坐禅して仏に成るのを疑っている言葉を、「如何なるか即是」と大寂が言ったように心得るであろうが、そうではない。
決して疑いの言葉ではなく、〔「如何なるも即是」であって、〕「如何なるも作仏」という言葉である。「作仏」でない道理はあるはずがないから、「這頭の問著に相似せり」とあるのである。この「如何即是」の言葉が、また「那頭の即是をも問著する」道理であるのである。
「たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。われに親友なるはかれに親友なり」とある。
この「親友」とは、「坐禅」と「作仏」の親しい所を「親友」と言うのである。
「『如何即是』、すなはち一時の出現なり」とある。
この「如何即是」の言葉が、単に疑いの言葉ではなく「一時の」現成公案となるのである。この「一時」とは、「作仏」の「一時」である。際限のない「一時」である。
合掌
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