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みな磨塼によって自分自身の真相がはっきりする『第十二坐禅箴』12-3-3a 

[『正法眼蔵』私訳]

南嶽いはく、「磨作鏡マサキョウ《磨して鏡と作す》」。


この道旨ドウシ、あきらむべし。


磨作鏡は、道理かならずあり。


見成ケンジョウの公案あり、虚設コセツなるべからず。


センはたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究リキキュウするに、許多コタの榜様ボウヨウあることをしるべし。


古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし。


もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、

仏祖の道得なし、仏祖の開口カイクなし、仏祖の出気スイキを見聞せず。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 南嶽が言った、「磨いて鏡とする」。

(南嶽いはく、「磨作鏡《磨して鏡と作す》」。)


この言葉の意味を明らかにすべきである。

(この道旨、あきらむべし。)


磨いて鏡と作すことには、その道理が必ずある。

(磨作鏡は、道理かならずあり。)

〔人間は、鏡を見た時に、こちらにある実物がそのまま鏡の中に映っている

と理解します。しかし、鏡は、鏡の外側に映される対象があり、

それが今鏡の中に映し取られているという風なことではなく、

いきなりこういう風な様子が鏡の中で活動しているだけなのです。

それが磨作鏡の道理です。〕


〔外の景色が見える時、外の景色を鏡に映しているというような気配はなくいきなり外の景色そのものがあるように、磨けば、〕

磨くという確かな事実が現れるのである。これはいい加減な話ではない。

(見成の公案あり、虚設なるべからず。)


塼はたとえ塼であろうとも、鏡はたとえ鏡であろうとも、

磨の道理を力を尽くして参究する上で、

数多くの手本があることを知るべきである。

(塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、

磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。)

〔塼をこうやって磨いている時、先程の様子は何処にもなく、

今こうやって磨いている様子だけが現れているのである。〕


古鏡(現前するものを映すこの身心の古からの在り様)

明鏡(現前するものを映すこの身心の明らかな在り様)も、

みな磨塼(現前するものと一体になって生命活動が現れる在り様)によって自分自身の真相がはっきりする(作鏡をうる)のである。

(古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし。)


もし諸々の鏡(現前するものを映すこの身心の在り様)

塼を磨く(現前するものと一緒になって生命活動が現れる)ことから来るということを知らなければ、

仏祖が真相を言われることはなく、仏祖が説法されることもなく、仏祖の活き活きとした様子を見聞することもないのである。

(もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、仏祖の道得なし、

祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず。)




                          合掌


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