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みな磨塼によって自分自身の真相がはっきりする『第十二坐禅箴』12-3-3b 

 〔聞書私訳〕

/「南嶽いはく、『磨作鏡《磨して鏡と作す》』。この道旨、あきらむべし」とは、「磨作鏡」とあるから、「鏡」を研いで「鏡と作す」と心得るのは、当たっていないわけではない。


だから、「塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも」と言うのである。どちらも「磨」の「力究」である。「許多の榜様あることをしるべし」と言う。このように心得れば「磨塼作鏡」とも言うことができる。


坐禅はたとえ坐禅であっても「作仏」は例え「作仏」であってもという意である。



〔抄私訳〕

「南嶽いはく、『磨作鏡マサキョウ《磨して鏡と作す》』。この道旨ドウシ、あきらむべし。磨作鏡は、道理かならずあり。見成ケンジョウの公案あり、虚設コセツなるべからず。塼センはたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究リキキュウするに、許多コタの榜様ボウヨウあることをしるべし。」とある。


大寂に「師、什麼をか作す(何をしているのですか)」と問われて、南嶽は「摩して鏡と作す」と答えられた。これは、研いで「鏡」とするためと答えられたように思われる。


「塼」は土塊を焼き固めた物、つまらない物で、「鏡」は銅でできたあらゆるものを映す宝である。このように凡夫は思っているので、「塼」と「鏡」の関係は価値のない物と価値のある物の関係となるのである。今の「磨作鏡」の道理は、そうではない。


「塼」をどんなに研いでも「鏡」となるはずがなく、およそ無駄なことである。しかし、これ(磨いて鏡となる)ほどの「塼」であれば、研がなくても「鏡」となろう、あれこれと疑わしいことである。


但し、「鏡」を「磨」と使い、「塼」を「鏡」と言う。決して、「塼」と「鏡」と別の物ではなく、坐禅と作仏の関係もこのようなものである。


この道理があるから「磨作鏡は、道理かならずあり」と言うのである。また、「見成の公案あり、虚設なるべからず」と言うのである。


〔抄私訳〕

「塼センはたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究リキキュウするに、許多コタの榜様ボウヨウあることをしるべし。」とある。


これは、塼は塼であっても、鏡は鏡であっても、「磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし」とは、「塼」と「鏡」はしばらくそのままにしておき、「磨の道理を」尽くす時「許多の」いろいろな在り様があるというのである。


「古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口カイクなし、仏祖の出気スイキを見聞せず。」とある。


これは磨の道理を十分に参学すべきであるという意味合いである。つまるところ、塼はつまらない物で、磨くのは行為と思っている偏った考え方を繰り返し嫌われるのである。磨は即ち坐禅、塼は即ち坐仏であるからである。



                         合掌


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