〔『正法眼蔵』原文〕
此土他界シドタカイことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。
自己の所見を自己の所見と決定ケツジョウせざるのみにあらず、
万般の作業サゴウに参学すべき宗旨あることを一定イチヂョウするなり。
しるべし、仏をみるに仏をしらず、会エせざるがごとく、
水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。
眼前の法、さらに通路あるべからずと倉卒ソウソツなるは、
仏学にあらざるなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
この世界と他の世界は違っていても、瓦を磨くとその通りにしか見えないはたらきが止むことなくあるという根本の趣旨があるのである。
(此土他界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。)
自己の所見を自己の所見と決定しないだけではなく、
あらゆる作業に学ぶべき根本の趣旨があることを決定するのである。
(自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。)
知るといい、仏を見ても仏を知らず、分かっていないように、水を見ても水を知らず、山を見ても山を知らないのである(自分のことだとは思わないのである)。
(しるべし、仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、
水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。)
眼の前のものは、決して仏の悟りに通じる道があるはずはないと軽率であるのは、仏道を学ぶ姿勢ではないのである。
(眼前の法、さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。)
瓦を磨くとその通りにしか見えないはたらきが止むことなくある『第十二坐禅箴』12-3-2b
合掌
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