〔『正法眼蔵』原文〕
かくのごとく身心をととのゑて、欠気一息カンキイッソクあるべし。
兀々ゴツゴツと坐定ザジョウして思量箇不思量底シリョウコフシリョウテイなり。
不思量底如何思量フシリョウテイイカンシリョウ。これ非思量なり。
これすなはち坐禅の法術なり。
坐禅は習禅シュウゼンにはあらず、大安楽ダイアンラクの法門なり。
不染汚フゼンナの修証なり。
正法眼蔵 坐禅儀第十一
〔『正法眼蔵』私訳〕
このように身心を整えて、一度息を大きく吸い口から長くはき出しなさい。
(かくのごとく身心をととのへて、欠気一息カンキイッソクあるべし。)
ゴツゴツと静かに坐して、思量ないこの今の様子を思量する(思量なしに在るこの今の様子のままに居る)のである。
(兀々ゴツゴツと坐定ザジョウして思量箇不思量底シリョウコフシリョウテイなり。)
思量していない様子を思量するにはどうするのか。
(不思量底如何思量フシリョウテイイカンシリョウ。)
思量ではないありようがこれである。
(これ非思量なり。)
これが坐禅の正しい方法である。
(これすなはち坐禅の法術なり。)
坐禅は習禅(積み重ねて次第に深めていく禅)ではなく、
とても安楽な仏道に入る門である。
(坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。)
坐禅は不染汚(思量に染め汚されない)の修証(修行即証果:生命活動のありようである。
(不染汚の修証なり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
〔音がする(修行)と、思量の介在なく(不染汚)、即座にその音の通り聞こえます(即証果)。
目を開く(修行)と、思量の介在なく(不染汚)、即座に目の前の様子が見えます(即証果)。
このようにその時その時のこの身心の生命活動(修行)が即座に自分の様子として自分の上に現れる(即証果)。
このような生命活動のありよう(修行即証果)に親しくいることが、不染汚(思量に染め汚されない)修証(生命活動のありよう)なのです。〕
正法眼蔵年涅槃妙心坐禅儀(正しい坐禅の仕方)
第十一の巻終わる(正法眼蔵 坐禅儀第十一)
その時、西暦1243年癸卯ミズノトウ冬十一月、越前吉田県の吉峰精舎にて大衆に示した。
(爾時寛元元年癸卯冬十一在越州吉田縣吉峰精舎示衆)
合掌
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