〔聞書私訳〕
/「兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。」
この言葉は、次の『坐禅箴』の巻で詳しく論じるので、これを略す。
/「善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず」であるためにこのように言われるのである。身の威儀、意の止観などは禅ではない。
「心外無別法」(すべての現象は、それを認識する人間の心の現れであり、
心とは別に存在するものではない)と言うからである。
/「坐臥を脱落すべし」とは、坐禅は坐臥の形ではないことを知るのを、「坐臥を脱落すべし」と言うのである。
/「兀々と坐定して箇の不思量底を思量するなり」とは、
坐禅して必ず思量することがあるというのではない。
坐禅の時は、「箇の不思量底を思量する」のである。
/「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり」とは、「習禅にはあらず」とは、教(天台教学)で言う禅定のことではないと言うのである。
「大安楽」とは坐禅こそ「大安楽」であり、教で言う楽は、いかにも苦に対する楽であるから小楽であり、「大安楽」ではない。
/この『坐禅儀』の他に『普勧坐禅儀』(普く勧める坐禅の仕方)でも、「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」と言うが、これは全機(全分のはたらき)の意であり、坐禅はそのまま運転(対象に対して思慮分別を働かせること)や測量(測らい)などがない完全な坐禅なのである。
/「不染汚の修証なり」とは、成仏を待たず、「坐臥を脱落」することが「不染汚」であるためにこのように言うのである。

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