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坐禅はとても安楽な仏道に入る門である 『第十一坐禅儀』11-1-3b

 〔聞書私訳〕

/「兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。」

この言葉は、次の『坐禅箴』の巻で詳しく論じるので、これを略す。


/「善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず」であるためにこのように言われるのである。身の威儀、意の止観などは禅ではない。

「心外無別法」(すべての現象は、それを認識する人間の心の現れであり、

心とは別に存在するものではない)と言うからである。


/「坐臥を脱落すべし」とは、坐禅は坐臥の形ではないことを知るのを、「坐臥を脱落すべし」と言うのである。


/「兀々と坐定して箇の不思量底を思量するなり」とは、

坐禅して必ず思量することがあるというのではない。

坐禅の時は、「箇の不思量底を思量する」のである。


/「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり」とは、「習禅にはあらず」とは、教(天台教学)で言う禅定のことではないと言うのである。


「大安楽」とは坐禅こそ「大安楽」であり、教で言う楽は、いかにも苦に対する楽であるから小楽であり、「大安楽」ではない。


/この『坐禅儀』の他に『普勧坐禅儀』普く勧める坐禅の仕方でも、「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」と言うが、これは全機(全分のはたらきの意であり、坐禅はそのまま運転対象に対して思慮分別を働かせることや測量(測らい)などがない完全な坐禅なのである。


/「不染汚の修証なり」とは、成仏を待たず、「坐臥を脱落」することが「不染汚」であるためにこのように言うのである。



                         合掌



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