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思考なしに在る今の様子のままに居る『第十一坐禅儀』11-1-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 あるいは半跏趺坐ハンカフザし、あるいは結跏趺坐ケッカフザす。


結跏趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。


ひだりの足をみぎのもものうへにおく。


あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。


参差シンシなることをえざれ。


半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。


 衣衫エサンを寛繋カンケして斉整セイセイならしむべし。


右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。


ふたつのおほゆび、さきあひささふ。


両手かくのごとくして身にちかづけておくなり。


ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほぞに対しておくべし。


 正身端坐ショウシンタンザすべし。


ひだりへそばたち、みぎへかたぶき、

まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。


かならず耳と肩と対し、鼻と臍ホゾと対すべし。


舌は、かみの顎アギトにかくべし。息は鼻より通ずべし。


くちびる歯あひつくべし。目は開すべし、不張不微フチョウフビなるべし。


兀々ゴツゴツと坐定ザジョウして思量箇不思量底シリョウコフシリョウテイなり。


これ非思量なり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

あるいは半跏趺坐(片足を組む坐法)し、あるいは結跏趺坐(両足を組む坐法)する。

(あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。)


結跏趺坐は、右の足を左の腿の上に置く。

(結跏趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。)


次に左の足を右の腿の上に置く。

(ひだりの足をみぎのもものうへにおく。)


足の先は、それぞれ腿と同じ高さにしなさい。

(あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。)


高低が不揃いであってはならない。

(参差なることをえざれ。)


半跏趺坐は、ただ左の足を右の腿の上に置くだけである。

(半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。)


 袈裟と衣をゆったり身につけて、整えなさい。

(衣衫を寛繋して斉整ならしむべし。)


次に、右手を左足の上に置き、左手を右手の上に置く。

(右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。)


両手の親指の先が支え合う。

(ふたつのおほゆび、さきあひささふ。)


両手をこのようにして身に近づけて組んだ足の上に置く。

(両手かくのごとくして身にちかづけておくなり。)


そして両手の親指が支え合っている先を、臍ヘソに対して置きなさい。

(ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに対しておくべし。)


 身を正しきちんと坐りなさい。(正身端坐ショウシンタンザすべし。)


左へ傾いたり、右へ傾いたり、前に屈んだり、後ろへ反り返ってはならない。

(ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。)


必ず耳と肩が真っ直ぐになるようにし、鼻と臍が真っ直ぐになるようにしなさい。

(かならず耳と肩と対し、鼻と臍ホゾと対すべし。)


舌は、上の顎アゴにつけなさい。

(舌は、かみの顎アギトにかくべし。)


息は鼻から呼吸しなさい。

(息は鼻より通ずべし。)


口を結び唇と歯をしっかりつけなさい。

(くちびる歯あひつくべし。)


目は開けておきなさい、張り過ぎてもいけない、細め過ぎてもいけない。

(目は開すべし、不張不微なるべし。)


 このように身心を整えて、一度息を大きく吸い口から長くはき出しなさい。

(かくのごとく身心をととのへて、欠気一息カンキイッソクあるべし。)


ゴツゴツと静かに坐して、思考していない様子を思考する(思考なしに在る今の様子のままに居る)のである。

(兀々ゴツゴツと坐定ザジョウして思量箇不思量底シリョウコフシリョウテイなり。)


思考していない様子を思考するにはどうするのか。

(不思量底如何思量フシリョウテイイカンシリョウ。)


思考なしに在る今の様子がこれである。

(これ非思量なり。)


これが坐禅の正しい方法である。

(これすなはち坐禅の法術なり。) 


非思量の雰囲気:庭木の存在感がグワーッと大きくなる『第十一坐禅儀』11-1-2b


                         合掌



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