〔『正法眼蔵』評釈〕
次巻の『第十二坐禅箴』に、「不思量にして現ず」(思考なしに在る)ということがあります。
例えば、カラスが「カアカア」と鳴くと、自分が考える前に何もしなくても、いきなり「カアカア」と聞こえる(在る)。自分の考えでそうなるのではない。自分が何も考えていないのに、いきなり「カアカア」、「ホーホケキョ」、「ピーポー」と、みなそうなります。
目が開くと、テーブルが見える(在る)、椅子が見える(在る)、が見える(在る)、庭木が見える(在る)、庭木が見える(在る)、大空庭木が見える(在る)・・・・・見ようと考えなくても次から次へと見える(在る)のです。
これが「不思量にして現ず」(思考なしに在る)です。自分の思考をそこに加えないのに、音がするとその音の通りの生命活動がこの身心の今の様子として「在る」のです。
目が開くと、考える前に何もしなくても、目の前の様子がその通り見える(在る)のです。見ようと考えたから見えるのではない。目が開くと、考えなくてもいつでもこういうふうにものの様子が見える(在る)のです。
このような生命活動の今の様子のままに居るのが坐禅の在り様です。嗅覚や味覚や体感や思いもみな同様です。
思考なしに否応なしに今の様子が「在る」のです。そのような生命活動のままに親密に居るのが、坐禅なのです。思考なしに在る今の様子のままに居ることを、「不思量底を思量する」と言うのです。
「ホーホケキョ!」と聞こえる。その後で「あ、今ホーホケキョと鳴いたな、あれはうぐいすだな・・・」と考えがはたらく。これが、考えで仮構の世界に生きている人間の日常ですね。
そうではなく、思考していないの今の様子、今聞こえる、今見える、今香る、今味がする、今体感がある、今思いが浮かぶ、何がどのようにあろうが、「思考していない今の様子」、それが「非思量」です。
このあたりの「非思量」の雰囲気を言語表現できないか、トライしてみます:
椅子に坐って庭木をぼんやりとながめていると、
突然、庭木の緑が緻密になり深まり、
その存在感がグワーッと大きくなる!
私という意識も体も庭全体と一体だ!
私は葉っぱであり葉っぱも私であるという解放感がとても心地よい!
ホーホケキョ!一体だ!
涼風が体を通り抜けていく!一体だ!
大空!一体だ!
・!・!・!・・・・・・・
このように文字通り実感していたわけではありませんが、
「非思量」の雰囲気の一端を味わっていただけないかなと思い、
誤解を心配しながらもあえて言語化してみました。
合掌
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