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まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである 『第十大悟』10-3-5a

〔『正法眼蔵』原文〕

 師云、「破鏡不重照ハキョウフジュウショウ、落花難上樹ラッカナンジョウジュ」。


 この示衆ジシュは、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。


しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、

しかも破鏡のことばを参学するは不是フゼなり。


いま華厳道ケゴンドウの「破鏡不重照、落花難上樹」の宗旨シュウシは、「

大悟底人不重照」といひ、「大悟底人難上樹」といひて、

大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取エシュしつべし。


しかあれども、恁麼の参学にあらず。人のおもふがごとくならば、

「大悟底人家常如何カジョウイカン」とら問取すべし。


これを答話せんに、「有却迷時ユウキャクメイジ」とらいはん。


而今の因縁、しかにはあらず。


「大悟底人、却迷時、如何」と問取するがゆゑに、

正当却迷時を未審ミシンするなり。


恁麼時節の道取現成は、「破鏡不重照」なり、「落花難上樹」なり。


落花のまさしく落花なるときは、百尺ヒャクシャクの竿頭に昇晋ショウシンするとも、

なほこれ落花なり。


破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成カッケイケンジョウすれども、

おなじくこれ不重照の照なるべし。


「破鏡」と道取し「落花」と道取する宗旨を拈来して、

「大悟底人却迷時」の時節を参取すべきなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

〔次に、華厳宝智大師の示衆(師家が学人に対して説法し指導すること)の説明となる。〕


 師が言った、「破れた鏡は再び照らすことはない、

落ちた花は樹に戻ることはない」。

(師云、「破鏡不重照、落花難上樹《破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し》」。)


この示衆は、まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである。

(この示衆は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。)


そうであるのに、鏡が破れる前の時に心を遣って、

なおその上に破れた鏡の言葉について学ぶのは間違いである。

(しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、

しかも破鏡のことばを参学するは不是なり。)


今、華厳宝智大師が言う「破れた鏡は再び照らすことはない、

落ちた花は樹に戻ることはない」の根本の趣旨を、

「大悟に徹した人は再び照らすことはない」と言い、

「大悟に徹した人は樹に戻ることはない」と言うから、

「大悟に徹した人はさらに却って迷うことはない」と理解するかもしれない。

(いま華厳道の「破鏡不重照、落花難上樹」の宗旨は、「大悟底人不重照」といひ、

「大悟底人難上樹」といひて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取しつべし。)


そうであるけれども、仏道はこのように学ぶのではないのである。

(しかあれども、恁麼の参学にあらず。)


人が思うようであれば、「大悟に徹した人の日常は、どうか」と尋ねてみるといい。

(人のおもふがごとくならば、「大悟底人家常如何」とら問取すべし。)


これに答えるのに、「却って迷う時もある」などと言うであろう。

(これを答話せんに、「有却迷時」とらいはん。)


今の話は、そういうことではない。

(而今の因縁、しかにはあらず。)


「大悟に徹した人が、却って迷う時は、どうか」と問うたのであるから、

まさに却って迷う瞬間のことを問うたのである。(「大悟底人、却迷時、如何」と問取するがゆゑに、正当却迷時を未審するなり。)


このような時に現れた言葉が、「破れた鏡は再び照らすことはない」

であり、「落ちた花は樹に戻ることはない」なのである。

(恁麼時節の道取現成は、「破鏡不重照」なり、「落花難上樹」なり。)


落ちた花がまさに落ちた花である時は、たとえ百尺の竿の先に持ち上げても、

やはりこれは落ちた花である。

(落花のまさしく落花なるときは、百尺の竿頭に昇晋するとも、なほこれ落花なり。)


破れた鏡はまさに破れた鏡であるから、多くの働きが現れても、

同じくみな「再び照らすことはない」の「照」なのである。

(破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。)


「破れた鏡」と言い、「落ちた花」と言った根本の趣旨を理解して、

「大悟に徹した人が却って迷う時」の時節を学び取るべきである。

(「破鏡」と道取し「落花」と道取する宗旨を拈来して、「大悟底人却迷時」の時節を参取すべきなり。)


まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである 『第十大悟』10-3-5b


                          合掌



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