〔『正法眼蔵』原文〕
師云、「破鏡不重照ハキョウフジュウショウ、落花難上樹ラッカナンジョウジュ」。
この示衆ジシュは、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。
しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、
しかも破鏡のことばを参学するは不是フゼなり。
いま華厳道ケゴンドウの「破鏡不重照、落花難上樹」の宗旨シュウシは、「
大悟底人不重照」といひ、「大悟底人難上樹」といひて、
大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取エシュしつべし。
しかあれども、恁麼の参学にあらず。人のおもふがごとくならば、
「大悟底人家常如何カジョウイカン」とら問取すべし。
これを答話せんに、「有却迷時ユウキャクメイジ」とらいはん。
而今の因縁、しかにはあらず。
「大悟底人、却迷時、如何」と問取するがゆゑに、
正当却迷時を未審ミシンするなり。
恁麼時節の道取現成は、「破鏡不重照」なり、「落花難上樹」なり。
落花のまさしく落花なるときは、百尺ヒャクシャクの竿頭に昇晋ショウシンするとも、
なほこれ落花なり。
破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成カッケイケンジョウすれども、
おなじくこれ不重照の照なるべし。
「破鏡」と道取し「落花」と道取する宗旨を拈来して、
「大悟底人却迷時」の時節を参取すべきなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
〔次に、華厳宝智大師の示衆(師家が学人に対して説法し指導すること)の説明となる。〕
師が言った、「破れた鏡は再び照らすことはない、
落ちた花は樹に戻ることはない」。
(師云、「破鏡不重照、落花難上樹《破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し》」。)
この示衆は、まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである。
(この示衆は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。)
そうであるのに、鏡が破れる前の時に心を遣って、
なおその上に破れた鏡の言葉について学ぶのは間違いである。
(しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、
しかも破鏡のことばを参学するは不是なり。)
今、華厳宝智大師が言う「破れた鏡は再び照らすことはない、
落ちた花は樹に戻ることはない」の根本の趣旨を、
「大悟に徹した人は再び照らすことはない」と言い、
「大悟に徹した人は樹に戻ることはない」と言うから、
「大悟に徹した人はさらに却って迷うことはない」と理解するかもしれない。
(いま華厳道の「破鏡不重照、落花難上樹」の宗旨は、「大悟底人不重照」といひ、
「大悟底人難上樹」といひて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取しつべし。)
そうであるけれども、仏道はこのように学ぶのではないのである。
(しかあれども、恁麼の参学にあらず。)
人が思うようであれば、「大悟に徹した人の日常は、どうか」と尋ねてみるといい。
(人のおもふがごとくならば、「大悟底人家常如何」とら問取すべし。)
これに答えるのに、「却って迷う時もある」などと言うであろう。
(これを答話せんに、「有却迷時」とらいはん。)
今の話は、そういうことではない。
(而今の因縁、しかにはあらず。)
「大悟に徹した人が、却って迷う時は、どうか」と問うたのであるから、
まさに却って迷う瞬間のことを問うたのである。(「大悟底人、却迷時、如何」と問取するがゆゑに、正当却迷時を未審するなり。)
このような時に現れた言葉が、「破れた鏡は再び照らすことはない」
であり、「落ちた花は樹に戻ることはない」なのである。
(恁麼時節の道取現成は、「破鏡不重照」なり、「落花難上樹」なり。)
落ちた花がまさに落ちた花である時は、たとえ百尺の竿の先に持ち上げても、
やはりこれは落ちた花である。
(落花のまさしく落花なるときは、百尺の竿頭に昇晋するとも、なほこれ落花なり。)
破れた鏡はまさに破れた鏡であるから、多くの働きが現れても、
同じくみな「再び照らすことはない」の「照」なのである。
(破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。)
「破れた鏡」と言い、「落ちた花」と言った根本の趣旨を理解して、
「大悟に徹した人が却って迷う時」の時節を学び取るべきである。
(「破鏡」と道取し「落花」と道取する宗旨を拈来して、「大悟底人却迷時」の時節を参取すべきなり。)
まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである 『第十大悟』10-3-5b
合掌
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