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正7-5-3b 『第七一顆明珠』第五段−3b 聞書抄〔黒山鬼窟の暗がりに 頭を突っ込んで生活しておるな〕

 〔抄私訳〕

「『玄砂曰、知、汝向黒山鬼窟裏作活計』。

しるべし、日面月面ニチメンガチメンは往古オウコよりいまだ不換なり。日面は日面とともに共出グシュツす、月面は月面とともに共出するゆゑに、」とある。


これは、僧の言葉が、まだ解脱の理を聞かず、ただ徒に疑っているので、「汝向黒山鬼窟」のうちで「活計を作す」といって、

嫌われているように思われる。


「黒山鬼窟」とは、悪い益のない所と思いこんでいる。よって、このように僧を嫌われる言葉と思われるのである。そもそも、「一顆明珠」のほかに、「黒山鬼窟」といって悪く嫌われなければならない所があるだろうか。

この「黒山鬼窟」と言われるのは「一顆明珠」なのである。


だから、後に、「日面は日面とともに共出す、月面は月面とともに共出するゆゑに」とあるのである。


今、「一顆明珠」の上では、「黒山」も「鬼窟」も、汝も会も不会も、

「用会作麼」も、「如何会得」も、みな「日面」と「月面」のように、

「一顆明珠」と「一顆明珠」の「共出」と心得るべきなのである。


〔抄私訳〕

「若六月道正是時ニャクロクガツドウショウゼジ、不可道我姓熱フカドウガショウネツ

《若し六月に正に是れ時と道ふも、我が姓ショウは熱と道ふべからず》なり」とある。


これは、「六月」の「熱」は六月であり、我姓が熱すると言うのではないのである、云々。この意味合いは我がいて何かをする義ではなく、法の道理に身心は打ち取られるのである、という意味合いである。本当に、「六月」こそ「熱」なのであり、我がなす所の熱ではない道理は明らかである。


〔聞書私訳〕

/「鬼窟」の内は三界はなく、ただ一心だと究めれば、どうということはない。「鬼窟」と恐れてはならないのである。

通例は、「黒山鬼窟裏」以外の言葉は、すべてないと心得る所である。


「諸法は本より来コノカタ、常に自ら寂滅の相なり」と言うのも、「十方仏土中、唯有一乗法」と言うのも、仏の言葉の「唯心」の道理を離れることはないのである。「黒山鬼窟」の言葉は、事により、所によって心得るべきである。



                     合掌


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