〔抄私訳〕
「玄砂来日問其僧、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会ソモサンエ」とある。
これは、次の日、師が僧に問われた言葉である。
以前の僧の言葉には、「学人如何が会得せん」とあって、
まだ僧が理解している所を聞かなかったので、それではお前は
どのように理解したのかと、重ねて問い正しているように思われる。
ただ、この件は、すでに前の段で聞いたので、
ここは重ねて「一顆明珠」の道理を述べられたと心得るべきである。
今更「作麼生会」の言葉は、凡見に類すべきではないのである。
「汝」という汝も、「一顆明珠」のほかの汝ではないのである。
「これは道取す、昨日サクジツ説定法ジョウホウなる、今日コンニチ二枚をかりて
出気スイキす。今日説不定法なり、推倒スイトウ昨日点頭笑テントウショウなり」とある。
「昨日説定法」「今日説不定法」という古い言葉がある。
つまるところ、「定法」も「不定法」も、「昨日」も「今日」も
「一顆明珠」の上での道理であり、ただ同じ道理なのである。
「二枚をかりて」と言われる二枚とは、昨日の「尽十方世界是一顆明珠、
用会作麼」の言葉と、今日の「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会」
の言葉を、しばらく「二枚」と言うのである。
ただ、「今日説不定法」と言う時は、「推倒昨日点頭笑」と言う時に、
「昨日」の言葉は、二つではない道理が明らかなのである。
「『僧曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼ヨウエソモ。』
いふべし騎賊馬キゾクバ逐賊チクゾク《賊馬に騎て賊を逐ふ》なり。
古仏為汝説コブツイニョセツするには異類中行なり」とある。
「騎賊馬」と「逐賊」はただ同じものである。この今の言葉は、これほどの義であると言うようなものである。「古仏為汝説するには」、交わるものがない所を「異類中行」と使うのである。凡見の言葉を交えず、みな解脱の言葉である所をこのように示すのである。
〔聞書私訳〕
/「昨日説定法なる、今日二枚をかりて出気す。今日説不定法なり、推倒昨日点頭笑なり」とは、「説定法」を「説不定法」が押し返し、倒して笑うほどのことである。「説定法」と「説不定法」は同じであるからである。
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