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正7-4-2b『第七一顆明珠』第四段2b 聞書抄〔一個の明珠は、古今ぶっ通しで不生不滅である〕

〔抄私訳〕

「『是一顆珠』は、いまだ名にあらざれども道得なり、

これを名に認じきたることあり」とある。


これは、「道得」とは、道い得たということであるから、口業クゴウ(善悪の報いの原因となる言葉)の働きと心得るであろう。この「道得」は「一顆明珠」という「名にあらざれども」、この「道得」の道理がないわけではないというのである。これもつまるところ、「一顆明珠」と呼び出さなくても、この道理は変わらないというのである。


「これを名に認じきたることあり」とは、

今「一顆明珠」という名を付けて談ずることを言うのである。


「一顆珠は、直須万年ジキシュバンネンなり。亙古未了カンコミリョウなるに、亙今到来なり。身今シンコンあり、心今ありといへども明珠なり。彼此ヒシの草木ソウモクにあらず、乾坤ケンコンの山河サンガにあらず、明珠なり」とある。


本当に、「一顆明珠」の道理は「直須万年」であり、際限がないのである。

「身今あり、心今あり」というのも、

みな「明珠」の「身今」と「心今」である。


「彼此の草木にあらず」という上に、「乾坤の山河にあらず、明珠なり」

いうのは、例の「明珠」の時節には、「彼此の草木」とも「乾坤の山河」

とも言うまい、ただ明珠であるという意味合いである。


〔聞書私訳〕

/「亙古未了なるに、亙今到来なり」とは、「驢事未去ロジミコ、馬事到来バジトウライ」というほどの言葉である。今日より前を古と立て、

今日より後を今と言うのではない。

生に対する死ではないから、古の上に今を立て、今の上に古を置くのである。


/「身今あり、心今ありといへども明珠なり。彼此の草木にあらず、

乾坤の山河にあらず、明珠なり」とある。


この「彼此」とは、能所がないことを表すためである。

「彼此の草木にあらず」と言い、「乾坤の山河にあらず」とは、

この三界の内の山河ではないと言うためであるから、

「明珠」であると言うのである。



                            合掌



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