〔抄私訳〕
「『是一顆珠』は、いまだ名にあらざれども道得なり、
これを名に認じきたることあり」とある。
これは、「道得」とは、道イい得たということであるから、口業クゴウ(善悪の報いの原因となる言葉)の働きと心得るであろう。この「道得」は「一顆明珠」という「名にあらざれども」、この「道得」の道理がないわけではないというのである。これもつまるところ、「一顆明珠」と呼び出さなくても、この道理は変わらないというのである。
「これを名に認じきたることあり」とは、
今「一顆明珠」という名を付けて談ずることを言うのである。
「一顆珠は、直須万年ジキシュバンネンなり。亙古未了カンコミリョウなるに、亙今到来なり。身今シンコンあり、心今ありといへども明珠なり。彼此ヒシの草木ソウモクにあらず、乾坤ケンコンの山河サンガにあらず、明珠なり」とある。
本当に、「一顆明珠」の道理は「直須万年」であり、際限がないのである。
「身今あり、心今あり」というのも、
みな「明珠」の「身今」と「心今」である。
「彼此の草木にあらず」という上に、「乾坤の山河にあらず、明珠なり」
いうのは、例の「明珠」の時節には、「彼此の草木」とも「乾坤の山河」
とも言うまい、ただ明珠であるという意味合いである。
〔聞書私訳〕
/「亙古未了なるに、亙今到来なり」とは、「驢事未去ロジミコ、馬事到来バジトウライ」というほどの言葉である。今日より前を古と立て、
今日より後を今と言うのではない。
生に対する死ではないから、古の上に今を立て、今の上に古を置くのである。
/「身今あり、心今ありといへども明珠なり。彼此の草木にあらず、
乾坤の山河にあらず、明珠なり」とある。
この「彼此」とは、能所がないことを表すためである。
「彼此の草木にあらず」と言い、「乾坤の山河にあらず」とは、
この三界の内の山河ではないと言うためであるから、
「明珠」であると言うのである。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿