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正7-4-1b『第七一顆明珠』第四段1b 聞書抄〔すべての世界は一個の明珠である、それを見よ〕

 〔抄私訳〕

「「尽十方」といふは、逐物為己チクモツイコ、逐己チクコイモツ為物《物を逐ひて己オノレと為し、己を逐ひて物と為す》の未休なり。情生智隔《情生ずれば智隔たる》を隔と道取する、これ回頭換面なり、展事投機なり」とある。


これは、「尽十方世界是一顆明珠」の言葉の「尽十方世界」を先ず釈されるのである。「逐物為己、逐己為物」とは、たとえば「尽十方界」と言えば、どうしても中央を置き、四方八方と上下を立て、これを「尽十方界」と言うように思われるのは、ごく普通に心得ている義である。


ここでは、四方八方それぞれが「尽十方界」なのである。そのわけは、東方と談ずる時は、みな「尽十方界」であり、その時はほかの九方はないのであり、ほかの方もこれに準じるのである。この意味合いを、「逐物為己、逐己為物」と言うのである。たとえば、「東方を己と為し、己を東方と為す」と言うほどの意味合いである。


「未休」とは無際限の意味合いである。「情生智隔」とは、悪い言葉と思われるが、これは、一方を証すれば一方はかくれるという意である。情が生ずれば智は隔たる意であるから、「回頭換面」とあり、「展事投機」とあるのも、ただ同じ意味合いである。


「逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり」とある。


「逐己為物のゆゑに」とは前の言葉の通りであり、「未休」も前と同じである。つまるところ、一方に「十方界」を尽くすのが「未休」(無辺際)である意味合いである。


「機先の道理」とは、今初めて無理に物を作り出した道理ではなく、無始本有(無始より本来有る)などという意味合いであり、本来の道理なのである。


「機要の管得にあまる」とは、「尽十方世界」の「機要」であり、「一顆明珠」を「機要」と指すのである。「あまる」とは、別に残る義ではなく、「機先の道理」や「一顆明珠」を残ると使うのである。


たとえば、東方と談ずる時は、みな「尽十方世界」であり、ほかの九方はないが、この道理の上では、また西方とも南方とも北方ともいう言葉がないわけではない。この道理をしばらく「あまる」とも言うのであるが、この「あまり」は別物ではなく、ただ同じ道理を「あまる」と使っても煩わしくないのである。


〔聞書私訳〕

/「是一顆珠は、いまだ名にあらざれども道得なり、

これを名に認じきたることあり」とある。


「名にあらざれども道得なり」ということは、この「一顆明珠」と言うからといって、「珠」という名と心得てはならない。「尽十方世界」というほどの「明珠」である時に、ただ普通の「珠」という名と思われない所を「名にはあらざれども」と言うのである。ただ、「道得」であることは疑うべきではないのである。


                            合掌





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