〔抄私訳〕
「あるとき、あまねく諸方を参徹せんために、嚢ノウをたづさへて出嶺シュツレイするちなみに、脚指キャクシを石に築著チクヂャクして、流血し、痛楚ツウソするに、
忽然コツネンとして猛省していはく、「是身非有ゼシンヒウ、痛自何来ツウジガライ《是の身有ウに非ず、痛み何れよりか来れる》」。
すなはち雪峰にかへる。
雪峰とふ、「那箇是備頭陀ナコシビズダ《那箇か是れ備頭陀》」。
玄砂いはく、「終不敢誑於人シュウフカンキョウオニン《終に敢へて人を誑タブラかさず》」。
このことばを雪峰ことに愛していはく、「たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得せん」」とある。
これは、六祖と南嶽の問答の「是什麼物恁麼来コレナニモノカインモライ」の言葉と、
「那箇か是れ備頭陀」の言葉は違わず、「玄砂いはく、『終に敢へて人を誑かさず』」の言葉は、「一物を説似すれば即ち中アタらず」の言葉に当たる。
表面を替えた言葉と思われるが、「終に敢へて人を誑かさず」というのは、人を置いて陳謝する義ではない。
ただ、雪峰の姿も玄砂の当体も「終に敢へて人を誑かさず」なのである。
〔聞書私訳〕
/「是の身シン有ウに非ず、痛み何れよりか来る」とは、
この時見処がすでに見えようか。
これは「是什麼物来」「一物も説似すれば即ち中らず」ほどの言葉であり、
また、「清浄本然いかでか山河大地を生ぜん」というほどの言葉である。
/「那箇か是れ備頭陀」《備は玄砂の名前、頭陀は僧の通名である》は、
「如何が是れ仏」と問うほどの義である。
/「終に敢へて人を誑かさず」とは、
「三界唯心」とも「諸法実相」ともいうほどの意で、
玄砂の言葉であり、「莫妄想」などというほどの言葉である。
「不釣自上」(釣らないのに自ずから上がる)の言葉も
「敢へて人を誑かさず」と同じ意である。
「那箇か是れ備頭陀」とは、雪峰の皮肉骨髄(全身)が言うのであり、
「敢へて人を誑かさず」とは、誰を示すということなく、
和尚の皮肉骨髄を得たという意味合いがあるのである。
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