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正7-1-4『第七一顆明珠』一段④聞書抄私訳〔ア痛ッ!一体何ものがこのように痛むのか〕

〔抄私訳〕

「あるとき、あまねく諸方を参徹せんために、嚢ノウをたづさへて出嶺シュツレイするちなみに、脚指キャクシを石に築著チクヂャクして、流血し、痛楚ツウソするに、

忽然コツネンとして猛省していはく、「是身非有ゼシンヒウ、痛自何来ツウジガライ《是の身有に非ず、痛み何れよりか来れる》」。

すなはち雪峰にかへる。

雪峰とふ、「那箇是備頭陀ナコシビズダ《那箇か是れ備頭陀》」。

玄砂いはく、「終不敢誑於人シュウフカンキョウオニン《終に敢へて人を誑タブラかさず》」。

このことばを雪峰ことに愛していはく、「たれかこのことばをもたざらん、たれかこのことばを道得せん」」とある。


これは、六祖と南嶽の問答の「是什麼物恁麼来コレナニモノカインモライ」の言葉と、

「那箇か是れ備頭陀」の言葉は違わず、「玄砂いはく、『終に敢へて人を誑かさず』」の言葉は、「一物を説似すれば即ち中アタらず」の言葉に当たる。


表面を替えた言葉と思われるが、「終に敢へて人を誑かさず」というのは、人を置いて陳謝する義ではない。

ただ、雪峰の姿も玄砂の当体も「終に敢へて人を誑かさず」なのである。


〔聞書私訳〕

/「是の身シンに非ず、痛み何れよりか来る」とは、

この時見処がすでに見えようか。

これは「是什麼物来」「一物も説似すれば即ち中らず」ほどの言葉であり、

また、「清浄本然いかでか山河大地を生ぜん」というほどの言葉である。


/「那箇か是れ備頭陀」《備は玄砂の名前、頭陀は僧の通名である》は、

「如何が是れ仏」と問うほどの義である。


/「終に敢へて人を誑かさず」とは、

「三界唯心」とも「諸法実相」ともいうほどの意で、

玄砂の言葉であり、「莫妄想」などというほどの言葉である。


「不釣自上」(釣らないのに自ずから上がる)の言葉も

「敢へて人を誑かさず」と同じ意である。

「那箇か是れ備頭陀」とは、雪峰の皮肉骨髄(全身)が言うのであり、

「敢へて人を誑かさず」とは、誰を示すということなく、

和尚の皮肉骨髄を得たという意味合いがあるのである。



                          合掌

7-1-3正法眼蔵原文私訳

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