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正6-32-2『第六行仏威儀』最終回 第三十二段② 抄・聞書私訳〔葛や藤に絡まれたような煩悩妄想を火焔の説法で断ち切ってしまうと、満天だけがある〕

 〔抄私訳〕

「しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、

三世諸法は三世に仏にとかるゝなり」とある。

仏が法を説き、法が仏を説く道理は、このようである。


「「葛藤窠カットウカ」の「風前」に「剪断センダン」する「亙天コウテン」のみあり。

「一言イチゴン」は、かくるゝことなく、「勘破カンパ」しきたる、

「維摩詰ユイマキツ」をも非維摩詰をも」とある。


「葛藤窠」は繫縛ケバクの言葉である。「風前に剪断する」とは解脱の言葉である。「葛藤窠」を「風前に剪断する」とは、今「亙天」の覆う所が、みな「亙天」の道理のほかに何もない所を「剪断する」と言うのである。


「一言は、かくるることなく、勘破しきたる」とは、この「亙天烈焔」、

あるいは雪峰・玄砂の言葉で、「維摩詰」を容易に「勘破」してしまうという意味合いである。「非維摩詰」の言葉は、「維摩」でない者もという意である。


「しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり」とある


確かに、仏説法・仏説仏だけではないであろう。

上にあげたようにいくらでも言うことができる道理である。

「亙天亙地」の言葉は、尽界という意味合いである。


「亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり」とある。

まことにそうである。この理を得た者は軽んじてはならず、

明らめた者は賎しく用いてはならない道理は明らかである。


「維摩詰」とは俗弟子であり、維摩居士コジのことである。

浄名居士とも言い、はげしい人であった。


智慧第一の舎利弗シャリホツ、弁舌第一の富楼那フルナ、以下仏弟子数百人と

維摩居士が問答したときに、仏弟子たちをみなやり込めた。


そこで、〔維摩が「不二に入る法門はいかなるものか」と問うたのに対し、〕

文殊が仏の感化を受けて、「無言無説、無示無識、諸の問答をはなるる」〔が入不二の法門である〕と言われた時、

維摩はこの言葉を聞いて随喜したのである。


維摩の方丈(居室)に三万六千の床を立てたが、方丈は狭くなく煩わしくなかったという。このような理解を超えた居士である。


従って、今維摩を引き出されたのは、このような者であっても、

この「亙天烈焔、法説仏」(満天の烈しい火焔では、法が仏を説く)の言葉で、

容易に「勘破」してしまうという意味合いである。



〔聞書私訳〕

/「葛藤窠の風前に剪断する」と言う。これは「亙天のみあり」と言えば、「法が仏を説く」理を言うのである。        

「葛藤窠」は三界の火宅(迷いと苦しみに満ちた火に包まれた家)にたとえ、

「風前に剪断する」は解脱の風である。


/「維摩詰」とは居士のことである。

「勘破」とは、「維摩」の邪見を仏が「勘破」するというのである。

三人の考えはどの言葉も違いはない。

従って、「剪断」「勘破」とも言うのである。


/「一言」「勘破」という言葉は、

「烈焔亙天」では「法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説く」

というほどの言葉である。



                            合掌


第三十二段①正法眼蔵原文私訳

 

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