〔抄私訳〕
「しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、
三世諸法は三世に仏にとかるゝなり」とある。
仏が法を説き、法が仏を説く道理は、このようである。
「「葛藤窠カットウカ」の「風前」に「剪断センダン」する「亙天コウテン」のみあり。
「一言イチゴン」は、かくるゝことなく、「勘破カンパ」しきたる、
「維摩詰ユイマキツ」をも非維摩詰をも」とある。
「葛藤窠」は繫縛ケバクの言葉である。「風前に剪断する」とは解脱の言葉である。「葛藤窠」を「風前に剪断する」とは、今「亙天」の覆う所が、みな「亙天」の道理のほかに何もない所を「剪断する」と言うのである。
「一言は、かくるることなく、勘破しきたる」とは、この「亙天烈焔」、
あるいは雪峰・玄砂の言葉で、「維摩詰」を容易に「勘破」してしまうという意味合いである。「非維摩詰」の言葉は、「維摩」でない者もという意である。
「しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり」とある
確かに、仏説法・仏説仏だけではないであろう。
上にあげたようにいくらでも言うことができる道理である。
「亙天亙地」の言葉は、尽界という意味合いである。
「亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり」とある。
まことにそうである。この理を得た者は軽んじてはならず、
明らめた者は賎しく用いてはならない道理は明らかである。
「維摩詰」とは俗弟子であり、維摩居士コジのことである。
浄名居士とも言い、はげしい人であった。
智慧第一の舎利弗シャリホツ、弁舌第一の富楼那フルナ、以下仏弟子数百人と
維摩居士が問答したときに、仏弟子たちをみなやり込めた。
そこで、〔維摩が「不二に入る法門はいかなるものか」と問うたのに対し、〕
文殊が仏の感化を受けて、「無言無説、無示無識、諸の問答をはなるる」〔が入不二の法門である〕と言われた時、
維摩はこの言葉を聞いて随喜したのである。
維摩の方丈(居室)に三万六千の床を立てたが、方丈は狭くなく煩わしくなかったという。このような理解を超えた居士である。
従って、今維摩を引き出されたのは、このような者であっても、
この「亙天烈焔、法説仏」(満天の烈しい火焔では、法が仏を説く)の言葉で、
容易に「勘破」してしまうという意味合いである。
〔聞書私訳〕
/「葛藤窠の風前に剪断する」と言う。これは「亙天のみあり」と言えば、「法が仏を説く」理を言うのである。
「葛藤窠」は三界の火宅(迷いと苦しみに満ちた火に包まれた家)にたとえ、
「風前に剪断する」は解脱の風である。
/「維摩詰」とは居士のことである。
「勘破」とは、「維摩」の邪見を仏が「勘破」するというのである。
三人の考えはどの言葉も違いはない。
従って、「剪断」「勘破」とも言うのである。
/「一言」「勘破」という言葉は、
「烈焔亙天」では「法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説く」
というほどの言葉である。
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