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正6-32-1『第六行仏威儀』最終回 第三十二段① 正法眼蔵原文私訳〔葛や藤に絡まれたような煩悩妄想を火焔の説法で断ち切ってしまうと、満天だけがある〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、

三世の諸法は三世に仏にとかるゝなり。


「葛藤窠カットウカ」の「風前」に

「剪断センダン」する「亙天コウテン」のみあり。


「一言イチゴン」は、かくるゝことなく、

「勘破カンパ」しきたる、「維摩詰ユイマキツ」をも非維摩詰をも。


しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。


仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。


かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。


亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり。



正法眼蔵行仏威儀第六

仁治二年辛丑十月中旬記于観音導利興聖コウショウ宝林寺

                  沙門シャモン道元



〔『正法眼蔵』私訳〕 

このようであるから、三世の諸仏は三世にわたって法を説かれ、

三世の諸法は三世にわたって仏に説かれるのである。

(しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、

三世諸法は三世に仏にとかるるなり。)


葛や藤に絡まれたような煩悩妄想を火焔(たった今)の説法で断ち切ってしまうと、満天だけがある。(葛藤窠の風前に剪断する亙天のみあり。)


「亙天烈焔、法説仏」(満天の烈しい火焔では法が仏を説く)の言葉は、

たった今が丸出しで隠れれるところがなく、

維摩も維摩でない者も見破ってきたのである。

(一言は、かくるることなく、勘破しきたる、維摩詰をも非維摩詰をも。)


そうであるから、

(たった今)が仏(たった今に住む人)を説くのであり、

法が仏を行ずるのであり、法が仏を明らかにするのである。

(しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。)


仏が法を説くのであり、仏が仏を行ずるのであり、

仏が仏になるのである。

(仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。)


このようであるのが、

みな行仏(たった今を行ずる人)威厳のある容儀である。

(かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。)


火焔が天地一ぱいになっており、また三世を通して照り抜いていても、道を得た者はどんな軽微なことでも決して軽んじず、

道を明らめた者はどんな用でも決して賤しまないのである。

(亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり。)


        

正法眼蔵行仏威儀(たった今を行ずる人の威厳のある容儀)第六巻終わる

西暦1241年かのとうし十月中旬、観音導利興聖宝林寺にて記す

                    出家者 道元



                            合掌


第三十二段②抄・聞書私訳

 

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