〔『正法眼蔵』原文〕
しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、
三世の諸法は三世に仏にとかるゝなり。
「葛藤窠カットウカ」の「風前」に
「剪断センダン」する「亙天コウテン」のみあり。
「一言イチゴン」は、かくるゝことなく、
「勘破カンパ」しきたる、「維摩詰ユイマキツ」をも非維摩詰をも。
しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。
仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。
かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。
亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり。
正法眼蔵行仏威儀第六
仁治二年辛丑十月中旬記于ウ観音導利興聖コウショウ宝林寺
沙門シャモン道元
〔『正法眼蔵』私訳〕
このようであるから、三世の諸仏は三世にわたって法を説かれ、
三世の諸法は三世にわたって仏に説かれるのである。
(しかあればすなはち、三世諸仏は三世に法をとかれ、
三世諸法は三世に仏にとかるるなり。)
葛や藤に絡まれたような煩悩妄想を火焔(たった今)の説法で断ち切ってしまうと、満天だけがある。(葛藤窠の風前に剪断する亙天のみあり。)
「亙天烈焔、法説仏」(満天の烈しい火焔では法が仏を説く)の言葉は、
たった今が丸出しで隠れれるところがなく、
維摩も維摩でない者も見破ってきたのである。
(一言は、かくるることなく、勘破しきたる、維摩詰をも非維摩詰をも。)
そうであるから、
法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説くのであり、
法が仏を行ずるのであり、法が仏を明らかにするのである。
(しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。)
仏が法を説くのであり、仏が仏を行ずるのであり、
仏が仏になるのである。
(仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。)
このようであるのが、
みな行仏(たった今を行ずる人)の威厳のある容儀である。
(かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。)
火焔が天地一ぱいになっており、また三世を通して照り抜いていても、道を得た者はどんな軽微なことでも決して軽んじず、
道を明らめた者はどんな用でも決して賤しまないのである。
(亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賎用なり。)
正法眼蔵行仏威儀(たった今を行ずる人の威厳のある容儀)第六巻終わる
西暦1241年かのとうし十月中旬、観音導利興聖宝林寺にて記す
出家者 道元
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