スキップしてメイン コンテンツに移動

正6-13-1『第六行仏威儀』第十三段① 〔生はあって死がない者があるか。死だけを伝え生を伝えない者があるか。〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、

生はありて死なきものあるべしや。


又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。


単生単死の類の有無、かならず参学すべし。


わづかに無生の言句をきゝてあきらむることなく、

身心の功夫をさしおくがごとくする物あり。


これ愚鈍のはなはだしきなり。


信法頓漸シンポウトンゼンの論にもおよばざる畜類といひぬべし。


ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、

この道得の意旨作麼生ソモサンなるべし。


さらに無仏・無道・無心・無滅なるべしや、無無生なるべしや、

無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、

いたづらに水草但念タンネンなるがゆゑなり。



〔抄私訳〕

これは、生ばかりあって死がない者、あるいは死のみ単伝(このものをこの通り伝える)して生を単伝しない者はあるか、とは、全て生と取る時は生はあり死はない、全て死と取る時は、死のみ単伝して生を単伝しない道理である。だから、「単生単死の類の有無、必ず参学すべし」と言うのである。


「無生」の句を聞くと、ただ生まれることがないとばかり心得て、「工夫をさしおく」事をこのようにいましめられるのである。信行(他の教を信じて行ずること)は漸々ゼンゼンに、法行(自ら法に依って行ずること)は頓トンに悟るといって「頓漸」に当てることを引き出されるのである。


「たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏・無道・無心・無滅なるべし」とは、仏を無と使う、或いは道・心・滅等を皆無と使うのである。だからこのように説けば、一般に「無生」の言葉に迷うことはないのである。解脱の無、独立の無である。

無々の無というのは解脱の無であり、仏性の上で有無を説くようなことである。


これらの道理を「功夫せず、いたづらに水草但念なるがゆゑなり」

と嫌がられるのである。経に、「但念水草、余無所知、謗経故、獲罪如是」(ただ水や草を念じ、余は知る所無く、の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し)という意である。


〔聞書私訳〕

/「生はありて死なきものあるべしや」とは、生が死とならないので、生はあって死はないとも言えるのである。死が生にならないので、死はあって生はないとも言える。これは、「生也全機現」(生も全分の働きの現れである)と言うときは死はなく、「死也全機現」(死も全分の働きの現れである)と言うときは生はないということである。


/「単生単死」とは、「心が生ずれば種々の法が生じ、心が滅すれば種々の法が滅する」ということであり、「生也全機現、死也全機現」ということである。


/「無仏」「無法」「無滅」の無であると言う。「無々生」と説くのは、ただ「無仏」「無法」「無滅」と同じ事であり、「行仏の威儀」(行仏という名の真実のありようの必ずきちっとその通りある様子)である。これは過量(行仏の量)である。


「無生」と言うのも、仏法で説くのと小乗で説くのとではるかに異なる。小乗は、三界の欲を断じれば、受ける生は無いと心得るのを「無生」と言うが、大乗では、「諸法は実相」と説く。これが「無生」である。


                       合掌

                     

                            

ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕

「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩 ミ る様子から学ぶべきである。 (眼見目覩 ガンケンモク ト にならふべし。) 」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか? 私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。 実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。 ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。 物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。 しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。 これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村