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正6-7-2『第六行仏威儀』第七段②〔抄私訳〕〔法の為に身を捨てる〕

前の「心量」の言葉に一を加えて「一心量」と置き、前の「仏量」の前に「無量」の言葉を付けるのは、しばらく一多に拘らない意である。「一心量」と「無量仏量」は、相違するものではない。 例えば、「一心量は無量仏量を包含す」ともとは、「一心量」「無量仏量」といっても、「行仏の容止動静を量ぜんと擬するには」 (行仏の立ち居振舞いを量ろうとするのには) 、この「行仏威儀」 (必ずきちっとこの通りある身心の様子 を行じる行仏という名の真実のありよう ) の姿が「過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、即不中」 (行仏の量の面目であり、行仏の量の身心の活動であるから、何と表現しても中 アタ らないのである) という意味合いである。 結局は、「一心量」も「無量仏量」も皆同じ意味合いであり、「行仏の威儀」に背かないが、「行仏の威儀」と言う時は、また交わる言葉もなくて「行仏の威儀」である。これによって「行仏」を量ろうという言葉はひとまずは凡夫の考え方と同じである。 すでに「威儀」 (必ずきちっとこの通りある身心の様子) の姿が「過量の面目あり、過量の行履なるがゆゑに」なのであるから、「無量仏量」を用いて「行仏威儀」を量ろうとしても、あたらないのであると心得るべきである。 そうかといって、この「一心量」「無量仏量」が、別のもので嫌われるべきものではないが、「行仏威儀」が一切のものにこだわらない所を一筋あげられるのである。 「包含」の言葉は、袋に物を入れているように心得てはならない。ただ、「一心量」と「無量仏量」の区別がない所を「包含」と心得るべきである。だから、「使不得なり、量不及なり」と言われるのである。 誰かがいて何を使うというのか。どのように量るというのか、だから「不及」と使うのである。言うならば、「行仏威儀」が「行仏威儀」を使い、「行仏威儀」を及不及 (及ぶ及ばない) とも言うのである。それならば、ありふれた言葉も、凡夫の考えとは異なるのである。「しばらく、行仏威儀に一究あり」と言って、又「行仏」の姿を出されるのである。 〔聞書私訳〕 /「為法捨身・為身捨法・不惜身命・但借身命」 (法の為に身を捨てる・身の為に法を捨てる・身命を惜しまない・ただ身命を惜しむ) と言う。これは皆同じ言葉であると言うのである。「汝亦如是、吾亦如是」 (汝も亦かくの如し、吾れもまたかくの如し) の法であるか

正6-7-1『第六行仏威儀』第七段①〔法の為に身を捨てる〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  こゝに為法捨身あり、為身捨法あり。 不惜身命 フシャクシンミョウ あり、但借 タンジャク 身命あり。 法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀 イイギ あり。 捨は無量なること、忘るべからず。 仏量を拈来 ネンライ して大道を測量 シキリョウ し、度量 タクリョウ すべからず。 仏量は一隅なり、たとえば「花開 ケカイ 」のごとし。 心量を挙来 コライ して威儀を模索 モサク すべからず、擬議 ギギ すべからず。 心量は一面なり、たとへば「世界」の如し。 一茎草量 イッキョウソウリョウ 、あきらかに仏祖心量なり。 これ行仏の蹤跡 ショウセキ を認ぜる一片なり。 一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、 行仏の容止動静 ヨウシドウジョウ を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。 過量の行履 アンリ なるがゆえに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。 〔抄私訳〕 先ず、「為法捨身」 (法の為に身を捨てる) の言葉をよく心得るべきである。そもそも、尽十方界真実人体 (尽十方世界は仏の真実人体である) の身を捨てるとは、どのように理解すべきか、捨てる所がないからである。 ただ、尽十方界真実人体と説くことこそ、大いに捨てることであるが、ただ崖から身を投げ、飢えている虎に身を餌として与えよるのを、「捨身」などと理解するのは仏法ではない。 五蘊 ゴウン(身心を構成する五つの作用の集まり:色受想行識) の穢 ケガ れた身を畜類に餌として与えるようなことに、どれほどの利益 リヤク があろう。今の捨て方こそ、仏道に捨てる意義深い捨て方である。つまり、尽十方界真実人体と説くことを、「為法捨身」と理解するのである。 この上で、「為身捨法」 (身の為に法を捨てる) 「不惜身命」 (身命を惜しまず) 「但惜身命」 (ただ身命を惜しむ) などという言葉は、皆「為法捨身」の道理である。だから、「法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり」と解釈されるのである。 「法のために法をすつる」という言葉に対して、「心のために心をすつる」と言うべきであるが、このように大方の理を理解したからには「心のために法をすつる」という言葉は、決して法と相違することにはならないというのである。だからこそ、言葉に関わらない仏法なのであ

正6-6-3『第六行仏威儀』第六段③〔『正法眼蔵』私訳〕〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕

 曹谿山の六祖慧能禅師が南嶽懐譲に言った、 「ただこの不染汚が、諸仏が常に心中で念うところであり、汝もまたこのようであり、吾れもまたこのようであり、インドの祖師たちもまたこのようである」。 (曹谿 ソウケイ いはく、「祗此不染汚 シシフゼンナ 、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」。) そうであるから、「汝もまたかくの如しである」から汝も諸仏である、 「吾れもまたかくの如しである」から、吾れも諸仏なのである。 (しかあればすなはち、「汝亦如是」のゆえに諸仏なり、「吾亦如是」のゆえに諸仏なり。) まさに、諸仏である 吾れ は 吾れ ではない、諸仏である 汝 は 汝 ではない。 (まことにわれにあらず、なんぢにあらず。) この不染汚 (もう一つのありようがなく何にも染め汚されないこと) により、是の吾れも如 (あるがまま) であり、諸仏が常に念うところであり、これが行仏威儀 (今きちっとこの通りある身体のありようを行ずる行仏という名の真実のありよう) である。 (この不染汚に、如吾是吾、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。) 是の汝も如 であり、諸仏が常に念うところであり、 これが行仏威儀である。 (如汝是汝、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。) 「吾もまたかくの如し」であるから六祖は勝れた師であり、 「汝もまたかくの如し」であるから南嶽も師に劣らない弟子である。 (吾亦のゆえに師勝なり、汝亦のゆえに資強なり。) 師も勝れ弟子も勝れており、二者の行仏の行が明らかに充足しているのである。 (師勝資強、これ行仏の明行足なり。) 知るといい、「これは諸仏が常に念うところである」と、 「吾れもまたかくの如し」であり、「汝もまたかくの如し」なのである。 (しるべし、「是諸仏之所護念」と、「吾亦」なり、「汝亦」なり。) 〔「汝亦如是 ゙ ・吾亦如是」と〕曹谿古仏が言われたことは、〔汝と吾れと隔てがないから、〕たとえ〔汝が〕吾れでなくとも、汝でないことはないのである。 (曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや。) 行仏が常に念う所、また行仏が通達する所とは、こういうことなのである。 (行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。) そういうわけ

正6-6-2『第六行仏威儀』第六段②〔聞書私訳〕〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕

/「曹谿いはく、「祗此不染汚、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」とある。 天台の教義に「双非双照 ソウヒソウショウ 」という名目がある。〔注記:『「双非と双照」は「双遮と双照」の誤記か。〕「汝吾亦如是」といえば、また非汝非誰 (汝にあらず、誰にあらず) という義もある。二つをあげて「双遮 ソウヒ と双照 ソウショウ 」というのではなく、一つをあげれば一つは隠れる義である。 /これは、汝もまた「不染汚」 (もう一つのありようがなく何にも染め汚されない) 、吾れもまた「不染汚」、諸仏も「不染汚」、諸祖も「不染汚」と言うべきである。「不染汚」の行は証を待たないのである。「汝も吾れも西天の諸祖も、またこのようである」から、ただ一つである。 又、行についてのみ「不染汚」と言うべきではなく、人についても「不染汚」と言うべきである。「如吾是吾」 (如は吾れであり是れも吾れである) と言うから、吾れも諸仏であり、〔「如汝是汝」 と言うから、〕汝も諸仏である。これが「行仏威儀」 (今きちっとこの通りある身体のありよう を行じる行仏という名の真実のありよう ) である。 「行仏」 ( 行仏という名の真実のありよう ) と「修証」と二つを立てて置かず、「修証」が今どうなっているかといえば、ただ「行仏」は「不染汚」、「如吾」も「不染汚」、「諸仏」も「不染汚」、「是吾」も「不染汚」、「所護念」も「不染汚」なのである。 /「明行足」とは、仏の十名号の一つである。「行足」の行は、今の「行仏」の行である。足の字は行に付くから、足 アシ とも理解されるが、足りているというのと同じである。仏の行は不足がないから、「目 (智慧) 足 (実践) が備わらなければ清涼の地に至らず」ということもある。「行足」の足である。 /「護念」 (心中にいつも念う) とは「不染汚」 (もう一つのありようがなく何にも染め汚されないこと) を指すのである、「不染汚」より外の仏の行はないからである。 /「曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや」とは、みな「あらずあらず」と謝遣 (断わって去らせる) して、終わるこがないから、「あらざらむや」と言うのである。汝にあらず、誰にあらずと

正6-6-1 『第六行仏威儀』第六段①〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  曹谿 ソウケイ いはく、 「祗此不染汚 シシフゼンナ 、是諸仏之所護念 ゼショブツシショゴネン 、汝亦如是 ニョヤクニョゼ 、吾亦如是 ゴヤクニョゼ 、乃至西天諸祖亦如是 ナイシサイテンショソヤクニョゼ 《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」。  しかあればすなはち、「汝亦如是」のゆゑに諸仏なり、「吾亦如是」のゆゑに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。 この不染汚に、如吾是吾 ニョゴゼゴ 、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。 如汝是汝 ニョニョゼニョ 、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。 「吾亦 ゴヤク 」のゆゑに師勝なり、「汝亦 ニョヤク 」のゆゑに資強 シゴウ なり。 師勝資強、これ行仏の明行足 ミョウギョウソク なり。 しるべし、「是諸仏之所護念」と、「吾亦」なり、「汝亦」なり。 曹谿古仏の道得 ドウトク 、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。 行仏之所護念 ギョウブツノショゴネン 、行仏之所通達、それかくのごとし。 かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末 ショウソウホンマツ 等にあらず。 行仏の去就 キョウシュウ 、これ果然 カネン として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。 〔抄私訳〕 これは曹谿古仏が、南嶽 ナンガク を印可 (悟りを認めること) された御言葉である。吾れとあれば曹谿、汝とあれば南嶽であると思われるが、師資 (師と弟子) の皮肉骨髄 (仏法の全体) が通じる所が、「われにあらずなんぢにあらぬ」という道理である。 又、「是れ諸仏の護念する所なり」と言えば、「諸仏」が別にあって「護念」 (心中にいつも念う) されるものがあるように思われるが、そうではない。すでに、「汝亦如是の故に諸仏なり、吾亦如是の故に諸仏なり」と言う時に、「諸仏」を指して「護念する所」と言うのである。決して別の物を置いて「護念」すると言っているのだと理解してはならない。まさに、「われにあらずなんぢにあらず」という道理がはっきりしているのである。 「汝亦如是・吾亦如是」と言えば、やはりどうしても自と他が相対する旧見 (古くから抱いているとらわれた見解) が起こるであろうが、「如吾是吾・如汝是汝」と言う時、自他、彼此相対の旧見を離