前の「心量」の言葉に一を加えて「一心量」と置き、前の「仏量」の前に「無量」の言葉を付けるのは、しばらく一多に拘らない意である。「一心量」と「無量仏量」は、相違するものではない。 例えば、「一心量は無量仏量を包含す」ともとは、「一心量」「無量仏量」といっても、「行仏の容止動静を量ぜんと擬するには」 (行仏の立ち居振舞いを量ろうとするのには) 、この「行仏威儀」 (必ずきちっとこの通りある身心の様子 を行じる行仏という名の真実のありよう ) の姿が「過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、即不中」 (行仏の量の面目であり、行仏の量の身心の活動であるから、何と表現しても中 アタ らないのである) という意味合いである。 結局は、「一心量」も「無量仏量」も皆同じ意味合いであり、「行仏の威儀」に背かないが、「行仏の威儀」と言う時は、また交わる言葉もなくて「行仏の威儀」である。これによって「行仏」を量ろうという言葉はひとまずは凡夫の考え方と同じである。 すでに「威儀」 (必ずきちっとこの通りある身心の様子) の姿が「過量の面目あり、過量の行履なるがゆゑに」なのであるから、「無量仏量」を用いて「行仏威儀」を量ろうとしても、あたらないのであると心得るべきである。 そうかといって、この「一心量」「無量仏量」が、別のもので嫌われるべきものではないが、「行仏威儀」が一切のものにこだわらない所を一筋あげられるのである。 「包含」の言葉は、袋に物を入れているように心得てはならない。ただ、「一心量」と「無量仏量」の区別がない所を「包含」と心得るべきである。だから、「使不得なり、量不及なり」と言われるのである。 誰かがいて何を使うというのか。どのように量るというのか、だから「不及」と使うのである。言うならば、「行仏威儀」が「行仏威儀」を使い、「行仏威儀」を及不及 (及ぶ及ばない) とも言うのである。それならば、ありふれた言葉も、凡夫の考えとは異なるのである。「しばらく、行仏威儀に一究あり」と言って、又「行仏」の姿を出されるのである。 〔聞書私訳〕 /「為法捨身・為身捨法・不惜身命・但借身命」 (法の為に身を捨てる・身の為に法を捨てる・身命を惜しまない・ただ身命を惜しむ) と言う。これは皆同じ言葉であると言うのである。「汝亦如是、吾亦如是」 (汝も亦かくの如し、吾れもまたかくの如し) の法であるか