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正6-6-1 『第六行仏威儀』第六段①〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 曹谿ソウケイいはく、

「祗此不染汚シシフゼンナ、是諸仏之所護念ゼショブツシショゴネン、汝亦如是ニョヤクニョゼ、吾亦如是ゴヤクニョゼ、乃至西天諸祖亦如是ナイシサイテンショソヤクニョゼ

《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」。


 しかあればすなはち、「汝亦如是」のゆゑに諸仏なり、「吾亦如是」のゆゑに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。


この不染汚に、如吾是吾ニョゴゼゴ、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。


如汝是汝ニョニョゼニョ、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。


「吾亦ゴヤク」のゆゑに師勝なり、「汝亦ニョヤク」のゆゑに資強シゴウなり。


師勝資強、これ行仏の明行足ミョウギョウソクなり。


しるべし、「是諸仏之所護念」と、「吾亦」なり、「汝亦」なり。


曹谿古仏の道得ドウトク、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。


行仏之所護念ギョウブツノショゴネン、行仏之所通達、それかくのごとし。


かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末ショウソウホンマツ等にあらず。


行仏の去就キョウシュウ、これ果然カネンとして仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。



〔抄私訳〕

これは曹谿古仏が、南嶽ナンガクを印可(悟りを認めること)された御言葉である。吾れとあれば曹谿、汝とあれば南嶽であると思われるが、師資(師と弟子)の皮肉骨髄(仏法の全体)が通じる所が、「われにあらずなんぢにあらぬ」という道理である。


又、「是れ諸仏の護念する所なり」と言えば、「諸仏」が別にあって「護念」(心中にいつも念う)されるものがあるように思われるが、そうではない。すでに、「汝亦如是の故に諸仏なり、吾亦如是の故に諸仏なり」と言う時に、「諸仏」を指して「護念する所」と言うのである。決して別の物を置いて「護念」すると言っているのだと理解してはならない。まさに、「われにあらずなんぢにあらず」という道理がはっきりしているのである。


「汝亦如是・吾亦如是」と言えば、やはりどうしても自と他が相対する旧見(古くから抱いているとらわれた見解)が起こるであろうが、「如吾是吾・如汝是汝」と言う時、自他、彼此相対の旧見を離れるのである。これは親密な言葉である。


「吾亦」は師、「汝亦」は弟子を言うのに似ているが、「師勝資強」と「汝亦吾亦」と同じ事で違わないから、「行仏の明行足なり」と言うのである。


「しるべし、是諸仏之所護念と、吾亦なり、汝亦なり。」とある。

それぞれが別ではない道理があきらかである。


「曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや。行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。」とある。

例えば、吾れでないという道理が、汝でないと言われるのである。吾れと言えば吾れ、汝と言えば汝なのである。


「かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。行仏の去就、これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。」とある。

「修証は性相本末等にあらざる」ことは論じるまでもないことである。「行仏の去就」とは、進退などという程の言葉である。「果然」は、果たしてなどという意味合いである。


仏を行じると「仏すなはち行ぜしむ」とは、仏を果上に置き、行を人に課して、この行によって仏果菩提(善因を修めることによって得る仏の悟り)を得ると心得ている。これは、「仏を行ぜしむるに」仏の外に余物を交えない道理が、仏を行じると言えば、仏が行じるのであり、凡夫がいて仏道を行じると説くのではない。仏が仏を行じるのである。


                            合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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