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正6-7-1『第六行仏威儀』第七段①〔法の為に身を捨てる〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 こゝに為法捨身あり、為身捨法あり。


不惜身命フシャクシンミョウあり、但借タンジャク身命あり。


法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀イイギあり。


捨は無量なること、忘るべからず。


仏量を拈来ネンライして大道を測量シキリョウし、度量タクリョウすべからず。


仏量は一隅なり、たとえば「花開ケカイ」のごとし。


心量を挙来コライして威儀を模索モサクすべからず、擬議ギギすべからず。


心量は一面なり、たとへば「世界」の如し。


一茎草量イッキョウソウリョウ、あきらかに仏祖心量なり。


これ行仏の蹤跡ショウセキを認ぜる一片なり。


一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、

行仏の容止動静ヨウシドウジョウを量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。


過量の行履アンリなるがゆえに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。



〔抄私訳〕

先ず、「為法捨身」(法の為に身を捨てる)の言葉をよく心得るべきである。そもそも、尽十方界真実人体(尽十方世界は仏の真実人体である)の身を捨てるとは、どのように理解すべきか、捨てる所がないからである。


ただ、尽十方界真実人体と説くことこそ、大いに捨てることであるが、ただ崖から身を投げ、飢えている虎に身を餌として与えよるのを、「捨身」などと理解するのは仏法ではない。


五蘊ゴウン(身心を構成する五つの作用の集まり:色受想行識)の穢ケガれた身を畜類に餌として与えるようなことに、どれほどの利益リヤクがあろう。今の捨て方こそ、仏道に捨てる意義深い捨て方である。つまり、尽十方界真実人体と説くことを、「為法捨身」と理解するのである。


この上で、「為身捨法」(身の為に法を捨てる)「不惜身命」(身命を惜しまず)「但惜身命」(ただ身命を惜しむ)などという言葉は、皆「為法捨身」の道理である。だから、「法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり」と解釈されるのである。


「法のために法をすつる」という言葉に対して、「心のために心をすつる」と言うべきであるが、このように大方の理を理解したからには「心のために法をすつる」という言葉は、決して法と相違することにはならないというのである。だからこそ、言葉に関わらない仏法なのである。これは皆「行仏威儀」であるからであり、法と心はそれぞれ別ではないからである。


「捨は無量」の言葉に二つの意味がある。一つは、「為法捨身・為身捨法」或いは、「不惜身命・但借身命」、この外に、鼻孔を棄てるとか、眼晴ガンゼイを捨てるとか、尽きることなく言うことができる道理が「無量なり」という意味である。


又、ものを一つ差し出して、このようだからこのようだと、たとえを出すように説く事を制して、「仏量を拈来して大道を測量し、度量すべからず」(仏の量りを持ってきて、行仏威儀の大道を推し測ってはならない)というのは、「仏量」は「仏量」で究尽し、「大道」は「大道」で解脱する道理は一つであるということである。


ただ、二つの意味があるからといって、決して二つの意味が違うものとなるわけではなく、ただ、同じ意味である。たとえば、仏性を蚯蚓キュイン(みみず)とか、悉有シツウ(悉くの存在)とか説くようなことである。よく考えるべきである。


これは、「花開いて世界起こる」という経文がある。花が開けば世界も起こると言う、一つの花が開けば天下は皆春であるという意味合いである。これは、「仏量は一隅なり」という考えである。「仏量」という時は尽界が皆「仏量」であり、「花開のごとし」である。「心量」を取り上げてこのようであると相対しない意味合いである。


「心量は一面なり、たとえば世界の如し」と言う、ただ「仏量」「心量」「花開」「世界」は、同じ意味である。「一茎草量」をそのまま「仏祖心量」と取る所をこのように解釈されるのである。「一茎草」と「仏祖心」とそれぞれ別であるように考えるであろう所をこのように解釈されるのである。これはすなわち、一つ一つに「威儀」が現成する姿なのである。



                           合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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