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正6-6-2『第六行仏威儀』第六段②〔聞書私訳〕〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕


/「曹谿いはく、「祗此不染汚、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」とある。


天台の教義に「双非双照ソウヒソウショウ」という名目がある。〔注記:『「双非と双照」は「双遮と双照」の誤記か。〕「汝吾亦如是」といえば、また非汝非誰(汝にあらず、誰にあらず)という義もある。二つをあげて「双遮ソウヒと双照ソウショウ」というのではなく、一つをあげれば一つは隠れる義である。


/これは、汝もまた「不染汚」(もう一つのありようがなく何にも染め汚されない)、吾れもまた「不染汚」、諸仏も「不染汚」、諸祖も「不染汚」と言うべきである。「不染汚」の行は証を待たないのである。「汝も吾れも西天の諸祖も、またこのようである」から、ただ一つである。


又、行についてのみ「不染汚」と言うべきではなく、人についても「不染汚」と言うべきである。「如吾是吾」(如は吾れであり是れも吾れである)と言うから、吾れも諸仏であり、〔「如汝是汝」と言うから、〕汝も諸仏である。これが「行仏威儀」(今きちっとこの通りある身体のありようを行じる行仏という名の真実のありようである。


「行仏」行仏という名の真実のありようと「修証」と二つを立てて置かず、「修証」が今どうなっているかといえば、ただ「行仏」は「不染汚」、「如吾」も「不染汚」、「諸仏」も「不染汚」、「是吾」も「不染汚」、「所護念」も「不染汚」なのである。


/「明行足」とは、仏の十名号の一つである。「行足」の行は、今の「行仏」の行である。足の字は行に付くから、足アシとも理解されるが、足りているというのと同じである。仏の行は不足がないから、「目(智慧)(実践)が備わらなければ清涼の地に至らず」ということもある。「行足」の足である。


/「護念」(心中にいつも念う)とは「不染汚」(もう一つのありようがなく何にも染め汚されないこと)を指すのである、「不染汚」より外の仏の行はないからである。


/「曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや」とは、みな「あらずあらず」と謝遣(断わって去らせる)して、終わるこがないから、「あらざらむや」と言うのである。汝にあらず、誰にあらずという意味合いは、汝である、誰であるとも言うことができるから、「なんぢにあらざらむや」と説くのである。後に、「烈焔にくらくとも亘天に覆われて」という程のことである。


/「行仏の去就」とは、《在り様であり、去り就く、去り就けるである。》

「行仏」の上で言うと、「果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ」と言うのである。これは、仏に作仏(仏と成る)させられるか、仏を作仏させるか、などという意味合いである。ただ、仏の一面が出る・仏の両面が出るという程の「去就」と心得るのである。


                            合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...