スキップしてメイン コンテンツに移動

正6-6-3『第六行仏威儀』第六段③〔『正法眼蔵』私訳〕〔ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり〕


 曹谿山の六祖慧能禅師が南嶽懐譲に言った、

「ただこの不染汚が、諸仏が常に心中で念うところであり、汝もまたこのようであり、吾れもまたこのようであり、インドの祖師たちもまたこのようである」。

(曹谿ソウケイいはく、「祗此不染汚シシフゼンナ、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」。)


そうであるから、「汝もまたかくの如しである」から汝も諸仏である、

「吾れもまたかくの如しである」から、吾れも諸仏なのである。

(しかあればすなはち、「汝亦如是」のゆえに諸仏なり、「吾亦如是」のゆえに諸仏なり。)


まさに、諸仏である吾れ吾れではない、諸仏であるではない。

(まことにわれにあらず、なんぢにあらず。)


この不染汚(もう一つのありようがなく何にも染め汚されないこと)により、是の吾れも如(あるがまま)であり、諸仏が常に念うところであり、これが行仏威儀(今きちっとこの通りある身体のありようを行ずる行仏という名の真実のありよう)である。

(この不染汚に、如吾是吾、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。)


是の汝も如であり、諸仏が常に念うところであり、これが行仏威儀である。

(如汝是汝、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。)


「吾もまたかくの如し」であるから六祖は勝れた師であり、

「汝もまたかくの如し」であるから南嶽も師に劣らない弟子である。

(吾亦のゆえに師勝なり、汝亦のゆえに資強なり。)


師も勝れ弟子も勝れており、二者の行仏の行が明らかに充足しているのである。

(師勝資強、これ行仏の明行足なり。)


知るといい、「これは諸仏が常に念うところである」と、

「吾れもまたかくの如し」であり、「汝もまたかくの如し」なのである。

(しるべし、「是諸仏之所護念」と、「吾亦」なり、「汝亦」なり。)


〔「汝亦如是・吾亦如是」と〕曹谿古仏が言われたことは、〔汝と吾れと隔てがないから、〕たとえ〔汝が〕吾れでなくとも、汝でないことはないのである。

(曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや。)


行仏が常に念う所、また行仏が通達する所とは、こういうことなのである。

(行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。)


そういうわけだから知った、修証は、性(本質)・相(形相)・本末究竟等九如是が究極的に等しいことではないのである。

(かるがゆえにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。)


行仏のありようは、果たして仏を行じさせるので、仏が行じさせるのである。

(行仏の去就、これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。)

〔行がすなわち仏であることをこのように言われるのである。〕



                           合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...