曹谿山の六祖慧能禅師が南嶽懐譲に言った、
「ただこの不染汚が、諸仏が常に心中で念うところであり、汝もまたこのようであり、吾れもまたこのようであり、インドの祖師たちもまたこのようである」。
(曹谿ソウケイいはく、「祗此不染汚シシフゼンナ、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是《ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し》」。)
そうであるから、「汝もまたかくの如しである」から汝も諸仏である、
「吾れもまたかくの如しである」から、吾れも諸仏なのである。
(しかあればすなはち、「汝亦如是」のゆえに諸仏なり、「吾亦如是」のゆえに諸仏なり。)
まさに、諸仏である吾れは吾れではない、諸仏である汝は汝ではない。
(まことにわれにあらず、なんぢにあらず。)
この不染汚(もう一つのありようがなく何にも染め汚されないこと)により、是の吾れも如(あるがまま)であり、諸仏が常に念うところであり、これが行仏威儀(今きちっとこの通りある身体のありようを行ずる行仏という名の真実のありよう)である。
(この不染汚に、如吾是吾、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。)
是の汝も如であり、諸仏が常に念うところであり、これが行仏威儀である。
(如汝是汝、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。)
「吾もまたかくの如し」であるから六祖は勝れた師であり、
「汝もまたかくの如し」であるから南嶽も師に劣らない弟子である。
(吾亦のゆえに師勝なり、汝亦のゆえに資強なり。)
師も勝れ弟子も勝れており、二者の行仏の行が明らかに充足しているのである。
(師勝資強、これ行仏の明行足なり。)
知るといい、「これは諸仏が常に念うところである」と、
「吾れもまたかくの如し」であり、「汝もまたかくの如し」なのである。
(しるべし、「是諸仏之所護念」と、「吾亦」なり、「汝亦」なり。)
〔「汝亦如是゙・吾亦如是」と〕曹谿古仏が言われたことは、〔汝と吾れと隔てがないから、〕たとえ〔汝が〕吾れでなくとも、汝でないことはないのである。
(曹谿古仏の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらむや。)
行仏が常に念う所、また行仏が通達する所とは、こういうことなのである。
(行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。)
そういうわけだから知った、修証は、性(本質)・相(形相)・本末究竟等(九如是が究極的に等しいこと)ではないのである。
(かるがゆえにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。)
行仏のありようは、果たして仏を行じさせるので、仏が行じさせるのである。
(行仏の去就、これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。)
〔行がすなわち仏であることをこのように言われるのである。〕
合掌
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