〔聞書私訳〕 /「両頭俱動といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会にかゝはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」とある。 「仏向上」の「一頭」は、蚯蚓の上において「仏向上」の意義を現わすことのである。仏性を、非動・非不動と言うから、「倶動」と言えば「仏性の所在に不堪なり」 〈仏性のありかに精通していない〉 なのである。 /私(詮慧)は言う、「両段を指して、必ず両段と言うべきではない。だから倶動なのである」と。 /「両」とは、二でもなく三でもない、未斬時の両であるから。 /「倶」とは、二つを俱とするのではなく、一つを倶とするのでもない。 /寂静が「俱」なのである。この「倶」は、従来の謬った考えを脱落するから「動」と言うのである。 /例えば、衆生が仏になるのを「動」と言い、仏が仏になるのを「動」と言うようなことである。 /「未斬よりさきを一頭とせるか」とは、個々のものがそれぞれ分不相応でないことを「一頭」と言うのである。例えば、「万法唯一」 (あらゆるものはただ一つである) と言うようなことである。 /「仏向上を一頭とせるか」とは、上が下に待たれず、下が上に残らないのを「仏向上」と言うのである。この理は、上を待つのでもなく下に対するのでもない。 これが「向上」の「一頭」である。そうであるから、「未斬よりさきの一頭」と、「仏向上の一頭」を並べて、「両頭」と言おうというのではない。たとえ、並べようとしても、並べることができないから、仏道の道理によって斬・未斬とも使うのである。一方だけに解してはならない。 /百千に斬っても、蚯蚓は「両段」とならない。斬れていない時一段と言うことがないから「両段」と言うのである。 有仏性の意味で「両段」と言い、無仏性の意味でも「両段」と言うのであるから、これを並べて二とか三とか言われるはずはない道理である。 /「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 /私は言う、「『倶』とは動の全面である。あれこれを強いて『倶』と言うのではない。『定動』 (禅定で動かす) の『動』ではなく、『智抜』 (智慧で抜く) の『動』と言うのではなく、『俱動』を『俱動』と言うのである」と。 /先ず「定」で「動」かし、後に「智」で「抜」くということ