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正3-13-6『第三仏性』十三段〔『正法眼蔵』評釈〕〔人間の身心は80兆個もの一つ一つ独立した生命細胞で構成されているそうです〕

 

「庵中の不死人」の作者である石頭和尚以外の誰でもが、石頭和尚と同じくその身心がそのまま仏であると言う。え!?こんな欲望まみれの身体が仏だなんてあり得なーい!


本当にあり得ないでしょうか?

人間の身心は80兆個もの一つ一つ独立した生命細胞で構成されているそうです。80兆個の生命細胞は、機能分化しそれぞれ系や器官を形成します。大脳系、神経系、血管系、骨格系、筋肉系、脂肪系、感覚器官、呼吸器官、消化器官、排泄器官などなどが形成されます。


外皮は外界から身心の内部環境を守り、肺は酸素を取り入れ血液に溶かし込み、心臓は血液を押出し、血管を通して新鮮な酸素と栄養をわずか1分間で80兆個もの全細胞に届けます。24時間365日休むことなく何も求めず、黙々と働いてくれています。使用済みの二酸化炭素と廃棄物は全身の毛細血管が受け取り、筋肉や内蔵の動き等によって肺に戻されます。この毛細血管を一本につなげると、その総長はなんと地球を1周半もするそうです。


一方、80兆個の生命細胞の5%程が毎日死滅し、5%程が毎日新生しているそうです。2〜3週間もすると80兆個の生命細胞は全部入れ替わり、全く別の身体になっているということになるのですね。言い方を変えれば、私たちの身心を構成する生命細胞群は、毎日4兆回、毎秒9万回の死と生を繰り返しているということになるのですね。何と不思議で壮大なドラマが私たちの身心の中で刻々に繰り広げられていることでしょうか。とても人間知が及ぶ景色ではありませんよね。


人間社会では、この身心の所有者は自分だと定義されており、私たちは当たり前のこととして生活していますが、よくよく考えてみると、80兆もの細胞で構成されているこの身心の活動の内、自分の意思でコントロールできるのは、ほんの一部分でしかないのではありませんか。


内蔵の働き、ホルモンの分泌、酸素と二酸化炭素の交換、新陳代謝作用、心臓へ向かっての血流の押上げ、体内衛生環境の確保・維持、悪性細菌との戦い、免疫性の獲得、ミトコンドリア(動物細胞にとって毒である酸素をエネルギーに換えている)との共生、DNA情報の保持と発現、脳神経細胞の電気・化学反応などなど、自分の意思でコントロールするなど不可能ですよね。


思いも自分が思おうとして思うのではありません。思おうとしなくても思いがフッと浮かんで来て、また別の思いがフッと浮かんでくるというのが実際ではないでしょうか。喜怒哀楽の感情も同じようです。怒るまいと思っているのに思わず怒ってしまう、笑おうと思っていないのに思わず笑ってしまう、思わず涙が出るとか、こういうことがありませんか。


自分の思う通りにはなかなかコントロールできないこの身心を自分のものだと私たちは言っていますが、ちょっと言い過ぎではないでしょうかね。


この身心は、誰かによって創られたものでもなく、誰かに命じられるわけでもなく、想像された宇宙の真ん中で、私たちが知らないままに、途方もない智慧に動かされて不可思議としか言いようがない素晴らしい生命活動を続けているのではないでしょうか。


石頭和尚が言う、「庵中の不死の人を識らんと欲はば、あに只今のこの皮袋を離れんや。

=庵の中の不死の人を知ろうと思えば、この身心を離れてはならないのである。」


身心は、フッと生まれ、2年位すると赤ん坊に意識が芽生え、身心と環境を認識し、この宇宙すらも想像するようになっていきます。私たち人間が存在せず、無限宇宙を想像する人間が一人もいなければ、無限宇宙は存在しないと言っている宇宙物理学者もいるようです。


今、この身心は、一時も休まず、文句も言わず、何も求めず、想像された無限宇宙の真ん中で、ひたすら生命活動し続けています。このような偉大で尊いこの身心に、私たちはどうすれば感謝を表すことができるのでしょうか。


このような素晴らしい身心のはたらきを仏性と呼ぶ、或いは仏と呼ぶのでしょうか。この身心は今現にこのようにある仏そのものなのでしょうか。この身心とそのはたらきに感謝合掌礼拝します。


                           合掌


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