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正3-14-1①『第三仏性』第十四段その1①〔ミミズが斬れて二つとなって、両方とも動いていまが、はて、仏性はどちらにありますか?〕


〔『正法眼蔵』本文〕

 長沙景岑チョウサケイシン和尚の会に、竺尚書チクショウショとふ、


「蚯蚓斬為両段キュウインゼンイリョウダン、両頭倶動リョウトウクドウ

《蚯蚓キュウイン斬れて両段と為る、両頭倶トモに動く。》


未審ミシン、仏性在阿那箇頭ブッショウザイアナコトウ

未審イブカシ、仏性阿那箇頭ブッショウアナコトウにか在る》」。


 師云イハク、「莫妄想マクモウゾウ《妄想すること莫ナカれ》」。


 書云、「争奈動何《動ずるはいかがせん》」。


 師云、「只是風火未散《只是れ風火の未だ散ぜざるなり》」。



〔抄私訳〕

「長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、「蚯蚓斬れて両段と為る、両頭倶に動く。未審、仏性阿那箇頭にか在る」。師云、「妄想すること莫れ」。書云、「動ずるはいかがせん」。師云、「只是れ風火の未だ散ぜざるなり」。」とある。


・この問答は、一般に人が理解するのは、蚯蚓(ミミズ)が二つに切れて、両方がともに動く上は、仏性は切れるものではないから、仏性はどちらか一方にあるのであろう、そうであるならば、どちらに仏性があるのかと疑っているようにこの文面は読める。また、多分このように理解するであろう。


しかしもしこのように言うなら、初めから説いてきた仏性の意義はみな違うことになってしまうであろう。また、祖師の仏法ではない。正師に会わず審細に参学しない者が到るところである。先ず仏法で「両頭」と言い、「両段」と言い、また「動」と言い、「不動」と言い、また「蚯蚓」の様子を「斬・不斬」と説く趣旨を十二分に定めるべきである。その上で、この問答を明らかにすべきなのである。


〔聞書私訳〕

/無念寂静ジャクジョウを仏性と言うことがある。これは教(禅宗以外の宗派)の一方の道理を聞く時、このような世間の言葉で見ると、この蚯蚓の段は正常に機能しておらず、仏性とすることはできないということになる。


/「斬る」という言葉については、「葛藤の根源を斬る」という「人が未だ識らない」言葉がある。


/第一義諦タイ(出世間的真理)を錯アヤまれば第二諦(世間的真理)に落ちる。月に第一月《天の月であり、錯まらない》と第二月《眼に病があると見える月である》があり、水に宿る月の場合、天の月は第一月、第二月は水中の月とするが、この意味はそうではなく、もともと虚・実に関わらなく、第一月の終りに第二月はなく、第二月の初めに第一月はなく、第一月と第二月は一つと知るべきである。


/「蚯蚓」は「斬れて両段と為る」の言葉のようなこともあろう。もっとも、仏地ブツジ(仏の境界)は動かせるのか、切れるのか。三界は唯一心であるが、三界を切って両段(ふたつ)としたとき、一心はどちらに在るのか。「尽界(全世界)を斬って両段とする」という言葉はあるのか。


/斬った方が千万になっても、これを一頭(一つ)にして、まだ斬っていない仏向上の仏性を一頭とするのか。



〔『正法眼蔵』私訳〕

長沙和尚の法席で、竺尚書(長官)が問うた、

(長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、)


「ミミズが斬れて二つになって、両方とも動いていますが、はて、仏性はどちらにありますか」。

(「蚯蚓斬れて両段と為る、両頭倶に動く。未審、仏性阿那箇頭にか在る」。)

〔尚書は動くものを仏性と思っている。〕 



そこで長沙は、「妄想してはならない」と叱りつけられる。

(師いはく、「莫妄想《妄想すること莫ナカれ》」。)


でも尚書は言う、「両方とも動いているではありませんか、どういうことでしょうか」。

(書いはく、「動ずるはいかがせん」。)

〔尚書はどこまでも動くものを仏性と思っている。〕


長沙は言う、「これはただ〔ミミズの体を構成している〕地水火風がまだ離散していないからだ」。

(師いはく、「只是風火未散《只是れ風火の未だ散ぜざるなり》」。)

〔だが、そんなものを仏性と思ってはならないぞ。〕



                           合掌


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