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正3-11-7-①『第三仏性』第十一段その7①〔虎を陥れ虎をなで、相対を超越している仏性〈異類〉の中を自在に行く〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕


 陥虎埒虎カンコラッコ。、異類中行イルイチュウギョウ《虎を陥れ虎を埒る、異類中に行く。》


明見仏性也ミョウケンブッショウヤ、開一隻眼カイイッセキゲン。仏性明見也ブッショウミョウケンヤ、失一隻眼シツイッセキゲン《仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性が明見すれば一隻眼を失す。》


速道速道ソクドウソクドウ《速スミやかに道へ、速スミやかに道へ。》


仏性見処ケンジョ、得恁麼長トクインモチョウ《仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり》なり。




〔聞書私訳〕


/「陥虎埒虎異類中行、明見仏性也開一隻眼、仏性明見也失一隻眼、速道速道」云々。これは虎の頭を踏み、虎をひねり取るとも虎である。


/「虎を陥れ虎を埒ラチし、異類の中を行く」とは、この言葉は「唯我独尊ユイガドクソン」の言葉と同じである。人間界・天上界に対して「異類」なのではない。それでは相対しているようである。彼此の相対を超越しているところである。まったく相対すべき類タグイがないから異類なのである。「陥虎埒虎は「異類中行」である。「異類中行」とは、また世間の法とは異なるという意である。そうであるので、「仏性」である、「恁麼長」(このように勝れている)であると言うのである。「仏性」を、「長」(勝っている)と説くのである。「子ナンジの見」は「長老の見」であるとは、「明見仏性」(仏性を明らかに見る)の「見」を指すのである。 


/「長老の見」は「仏性」である、「仏性」でない「見」は「長老の見」とは言えない。「仏性」の義を見ようとしないものを、「長老」と言うことはできない。


/「明見仏性也、開一隻眼、仏性明見也、失一隻眼」とは、「烈焔亘天レツエンコウテン」(はげしい火焔が天にあまねし)では仏が法を説き、「亘天烈焔」(全天がはげしい火焔)では法が仏を説くと、入り違えるほどのことである。


/「異類中行」とは、あれもこれも共に虎の中での行である。交わるものがない意味合いである。讃嘆の言葉である。この道理が、「明見仏性也、開一隻眼、仏性明見也、失一隻眼」と言われるのである。仏性の上において「開」とも「失」とも使うのである。


「一隻」と言っても寸尺のことではなく、仏性「隻」である。共に得失の義ではない。「仏性明見」「明見仏性」「開一隻眼」「失一隻眼」はただ同じことである。仏性の道理が、あれこれと言われていると心得るべきである。「速道速道」の言葉は、人に対して言えと教えるのではなく、仏性の響く道理が、「速道速道」である。




〔『正法眼蔵』私訳〕


 虎を陥れ虎をなで、相対を超越している仏性〈異類〉の中を自在に行く。(陥虎埒虎、異類中行。《虎を陥れ虎を埒る。異類中に行く。》


仏性を明らかに見れば、片目を開き、仏性が明らかに見れば、片目を失くす。(明見仏性也、開一隻眼。仏性明見也、失一隻眼。《仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性が明見すれば一隻眼を失す。》)〔いずれの時も仏性が現れている。〕


速やかに言え、速やかに言え。(速道速道。《速やかに道へ、速やかに道へ》〔仏性が独り露わになっていて、どこからどこまでも仏性でないものはない、ということである。〕


潙山と仰山が会得した処は、仏性が会得した処であり、それはこのように優れているのである。(仏性見処、得恁麼長なり。《仏性の見処、恁麼に長ずることを得たりなり》)



                           合掌

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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