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正3-11-3『第三仏性』第十一段その3〔仏性を明らかに見るとは、誰の所作なのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 いはゆる「定慧等学 ジョウエトウガク 」の宗旨 シュウシ は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。 「此理如何 シリイカン 」と道取 ドウシュ するなり。 たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。 「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得 ドウトク なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここで言う「定と慧を等しく学べば、仏性を明らかに見る」の根本の趣旨は、 (いはゆる「定慧等学 ジョウエトウガク 」の宗旨は、) 坐禅を学ぶことが智慧を学ぶことを妨げないので、 (定学の慧学をさへざれば、) 坐禅と智慧を等しく学ぶところに、仏性を明らかに見ることがあるのではなく、 (等学するところに明見仏性あるにはあらず、) 仏性を明らかに見るところに、坐禅と智慧を等しく学ぶ学びがあるということである。 (明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。) 〔坐禅すれば智慧が開かれ、智慧が開かれると坐禅をいよいよするようになる。だから坐禅と智慧はどちらも妨げないのである。〕 *注:〔 〕内は訳者の補足。 だから、「この理はどうか」と言うのである。 (「此理如何 シリイカン 」と道取するなり。) 例えば、「仏性を明らかに見るとは、誰の所作なのか」と言っても同じである。 (たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。) 「仏性を等しく学べば、仏性を明らかに見る、この理はどうか」と言っても、仏法の道理を説き尽くしているのである。 (「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得なり。)                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

正3-11-2『第三仏性』第十一段その2〔行脚アンギャ中の飲み水代はしばらくおいておこう、しかし履き破ったわらじ代は誰に返させるのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 南泉 ナンセン 云 イワク 、「莫便是長老見処麼 マクベンゼチョウロウケンジョマ 《便ち是れ長老の見処なることなきや》 」。 黄檗 オウバク 曰 イワク 、「不敢 フカン 」。 南泉云、「漿水銭且致 ショウスイセンシャチ 、草鞋銭教什麽人還 ソウアイセンキョウジュウモニンゲン 《漿 水銭は且 シバラ く致 オ く、草鞋銭は什麽人 ナニビト をしてか還 カエ さしめん》 」。 黄檗便休 ベンキュウ 《黄檗便ち休す》 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 南泉 (黄檗の師) は言う、「これはお前の会得した処かな、それともどうか」。 (南泉云、「莫便是長老見処麼 マクベンゼチョウロウケンジョマ 《便ち是れ長老の見処なることなきや》」。) 黄檗は言う、「いやいや、どういたしまして」。 (黄檗曰、「不敢 フカン 」。) 南泉は言う、「行脚 アンギャ 中の飲み水代はしばらくおいておこう、 しかし履き 破ったわらじ代は誰に返させるのか」。 (南泉云、「漿水銭且致 ショウスイセンシャチ 、草鞋銭教什麽人還 ソウアイセンキョウジュウモニンゲン 《漿水銭は且 シバラ く致 オ く、草鞋銭は什麽人 ナニビト をしてか還 カエ さしめん》」。) 黄檗は、そこで休んだ。 (黄檗便休 ベンキュウ 《黄檗便 スナワチ ち休 キュウ す》。) 〔「わらじ代の貸し倒れじゃ」と貶 ケナ されたようなことを言われても、黄檗は一向平気で黙した。その人とその人だから何ともない。言うべきを言い、休すべきを休す、ここが実に仏性現前である。〕                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

正3-11-1②『第三仏性』第十一段その1②〔定と慧を等しく学べば仏性を明らかに見ることができる。この理はどうか。〕

  〔聞書私訳〕 /「定慧等学、明見仏性。此理如何」の言葉は、第三段の「山河大地皆依建立 センガダイチカイエコンリュウ 、三昧六通由茲発現 サンマイロクツウユウジホツゲン 」 (山河大地は皆依って建立し、三昧と神通力はこれによって現れる) と理解を合わすべきである。 /この問いに対して、答えの言葉を言うのは難しい。その理由は、「明見仏性、此理如何」と尋ねれば、「定慧等学するのだ」と答えることができるところだが、それを遮って「定慧等学すれば明見仏性である」と言うと、答えがないようなものである。 もっとも、「この理如何」というのが、そのまま「明見仏性」の道理である。以前にも、「如何」という言葉が、問いのようであるが答えとなることは、既に触れたことである〔如何か仏 〈如何なるも仏〉 〕。「この理如何」という言葉によって、いかにも仏性が現れるのである。 /「この理如何」とは、「定慧等学」と「明見仏性」を「この理如何」と言われるのである。 又、「諸悪莫作」 〈諸々の悪はなすことができない〉 という言葉とも理解を合わせるべきである。 /「一切衆生、明見仏性、此理如何」というようなものである。「定慧等学、悉有仏性」というようなものである。「有無等学、明見仏性」とも言える。定は仏性、慧は仏性となる。この「定慧」は、見仏性を助けるものと思われるが、そうではない。通常の意味とは違うのである。そのまま、「この理如何」と言うが、教にはすでに通常の意味とは違った考えが現われるのである。 /仏性明見 (仏性の明見) の所に「定慧等学」は現われるのである。そうであると言っても、これもやはり見るものと見られるものが二つであるように理解されるであろうところだが、「たれが所作なるぞと道取せんもをなじかるべし」 (誰が見るのかと言っても同じであろう) と言うのである。仏性を現わすのは衆生であり、衆生を現すのは仏性なのである。 /「定慧等学」と説く「学」は、学び取って証するところを現す「学」である。世間で人が理解する「学」は、初入 ショニュウ の学だけを知って、ほかならぬ証道 (道をさとる) の「学」を知らないようなものである。このために、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」という言葉に迷って、「明見仏性のところに、なおも定慧等学が必要なのか」と疑問を引き起こすのである。 /「定慧等学」によ

正3-11-1①『第三仏性』第十一段その1①〔定と慧を等しく学べば仏性を明らかに見ることができる〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 黄檗 オウバク 、在南泉 ナンセン の茶堂 サドウ 内坐。 《黄檗、南泉の茶堂の内に在って坐す。》 南泉問黄檗、「定慧等学 ジョウエトウガク 、明見仏性 ミョウケンブッショウ 。此理如何 シリ イカン 」。 《南泉、黄檗に問ふ、「定慧等学、明見仏性。此の理如何 イカン 」》 〔抄私訳〕 ・南泉は馬祖 バソ の門下であり、南泉普願 フガン 禅師と号する。黄檗は馬祖の法孫で、百丈大智禅師の弟子であり、黄檗断際禅師と号する。 ・上の言葉を釈されるのに、「いはゆる定慧等学の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。此理如何と道取するなり」 (いわゆる定慧等学の根本の趣旨は 、 定を学ぶことが慧を学ぶことを妨げないので、等しく学ぶところに仏性を明らかに見ることがあるのではない、仏性を明らかに見るところに定と慧を等しく学ぶ学があるということである) と言う。 『涅槃経』に、「二乗 (声聞・縁覚) は、定が多く慧が少ないから、仏性を見ることは蛍が出す光のようである。菩薩は、慧が多く定が少ないから、仏性を見ることは星のようである。如来は、定と慧が均等であって仏性を見る」とある。 これは確かに、定と慧が相対し、仏性を見るものと見られるものにし、仏性を見るものと見ないものを生じさせている。ここで説くところは、そうではない。 その理由は、定も慧も学も仏性以外のものと理解すべきではないからである。定も慧も仏性であるから、「定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」と釈されるのである。 一般には、定と慧を等しく学んで仏性を見ると理解している。ここでは「定慧等学」が「明見仏性」であるから、「明見仏性」の道理がほかならぬ「定慧等学」であるところを、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」と言われるのである。 「此の理如何」というのは、祖門で言う例の言葉である。これも結局、理は数多くあるが、これらの理はどれかと尋ねているように思われるが、これは、定も仏性、慧も仏性、学も仏性、明見導師も仏性である道理が、「此の理如何」と言われるのである。 「如何が仏」 『如何なるも仏〉 と言うのも、「什麽物恁麼来 ジュウモブツインモライ」

正3-10-2②『第三仏性』第十段その2②〔この身心〈是仏〉の在る処が、すなわち清浄で至妙な仏国土なのである〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 現前の衆縁 シュエン と認ずるは使得無礙風 シトクムゲフウ なり。 これ最上乗なる是仏 ゼブツ なり。 この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。 〔抄私訳〕 ・「現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり」と言う。これもただ、「現前の衆縁」も、行住坐臥 ギョウジュウザガ(行く、住む、坐す、臥す) の進退動揺 (起居動作) も、みな「使得無礙風」 (礙りの無い風を使い得る) の道理であるというのである。 ・「これ最上乗なる是仏なり」と言う。「この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり」と言う。この「是仏」というのも、突然出てきたような言葉であるけれども、「最上乗」の仏性であるなどというほどの言葉である。 〔聞書私訳〕 /「現前の衆縁」とは、我々のことを言うようであるが、ここでは「無礙風」と説かれたので、「現前の衆縁」とは仏法の衆縁であるから、「無礙風」と説かれるのは「仏性の処在」である。我々の五蘊を無理して、「衆縁」とも「不壊身」とも言うのではないのである。 /そもそも、「仏性の処在」ということは、多くあちこちで嫌われた言葉である。ここでも用いてはならないと思われるが、ここはそういうことではない。「処在」は仏性の全面を説くからである。 /「使得無礙風」、「仏性の処在」、「浄妙国土」、これらは以前に見た道理である。「生を使得」とは、「生也全機現」であり、「死を使得する」というのも同じく「死也全機現」である。生を愛しないのは全生 (全てが生) であり、死を恐れないのは全死 (全てが死) である。 /結局、この段は、「是れ仏有仏性なり」 〈この仏としてのありようが仏性である〉 をとるのである。「最上乗」 (最上の乗りもの) 「上上智」 (最も勝れた智) 「仏道立此人」 〈もとから仏道によって生きている人〉 「導師」「使得無礙風」「無礙慧」と、仏のそれぞれの徳を表す言葉はたくさんあるが、ただ仏と説くのである。 「後に能く使得」 (ここでよく使い得る) とあるときは、どれも仏についてのことであるから、「因果」も「福智」も「自由」であり、世間のなす業 (わざ) ではない。「生死」とはあるけれども、全機現 (全分のはたらきの現成) であるので、「とどめられず」「さへられず」とあるからには、また、我々の「生死」のようなものではない。 「五陰に処す」とあるけれど