〔『正法眼蔵』本文〕 いはゆる「定慧等学 ジョウエトウガク 」の宗旨 シュウシ は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。 「此理如何 シリイカン 」と道取 ドウシュ するなり。 たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。 「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得 ドウトク なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここで言う「定と慧を等しく学べば、仏性を明らかに見る」の根本の趣旨は、 (いはゆる「定慧等学 ジョウエトウガク 」の宗旨は、) 坐禅を学ぶことが智慧を学ぶことを妨げないので、 (定学の慧学をさへざれば、) 坐禅と智慧を等しく学ぶところに、仏性を明らかに見ることがあるのではなく、 (等学するところに明見仏性あるにはあらず、) 仏性を明らかに見るところに、坐禅と智慧を等しく学ぶ学びがあるということである。 (明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。) 〔坐禅すれば智慧が開かれ、智慧が開かれると坐禅をいよいよするようになる。だから坐禅と智慧はどちらも妨げないのである。〕 *注:〔 〕内は訳者の補足。 だから、「この理はどうか」と言うのである。 (「此理如何 シリイカン 」と道取するなり。) 例えば、「仏性を明らかに見るとは、誰の所作なのか」と言っても同じである。 (たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。) 「仏性を等しく学べば、仏性を明らかに見る、この理はどうか」と言っても、仏法の道理を説き尽くしているのである。 (「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得なり。) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村