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正3-11-1②『第三仏性』第十一段その1②〔定と慧を等しく学べば仏性を明らかに見ることができる。この理はどうか。〕

 〔聞書私訳〕

/「定慧等学、明見仏性。此理如何」の言葉は、第三段の「山河大地皆依建立センガダイチカイエコンリュウ、三昧六通由茲発現サンマイロクツウユウジホツゲン(山河大地は皆依って建立し、三昧と神通力はこれによって現れる)と理解を合わすべきである。


/この問いに対して、答えの言葉を言うのは難しい。その理由は、「明見仏性、此理如何」と尋ねれば、「定慧等学するのだ」と答えることができるところだが、それを遮って「定慧等学すれば明見仏性である」と言うと、答えがないようなものである。


もっとも、「この理如何」というのが、そのまま「明見仏性」の道理である。以前にも、「如何」という言葉が、問いのようであるが答えとなることは、既に触れたことである〔如何か仏〈如何なるも仏〉〕。「この理如何」という言葉によって、いかにも仏性が現れるのである。


/「この理如何」とは、「定慧等学」と「明見仏性」を「この理如何」と言われるのである。


又、「諸悪莫作」〈諸々の悪はなすことができない〉という言葉とも理解を合わせるべきである。


/「一切衆生、明見仏性、此理如何」というようなものである。「定慧等学、悉有仏性」というようなものである。「有無等学、明見仏性」とも言える。定は仏性、慧は仏性となる。この「定慧」は、見仏性を助けるものと思われるが、そうではない。通常の意味とは違うのである。そのまま、「この理如何」と言うが、教にはすでに通常の意味とは違った考えが現われるのである。


/仏性明見(仏性の明見)の所に「定慧等学」は現われるのである。そうであると言っても、これもやはり見るものと見られるものが二つであるように理解されるであろうところだが、「たれが所作なるぞと道取せんもをなじかるべし」(誰が見るのかと言っても同じであろう)と言うのである。仏性を現わすのは衆生であり、衆生を現すのは仏性なのである。


/「定慧等学」と説く「学」は、学び取って証するところを現す「学」である。世間で人が理解する「学」は、初入ショニュウの学だけを知って、ほかならぬ証道(道をさとる)の「学」を知らないようなものである。このために、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」という言葉に迷って、「明見仏性のところに、なおも定慧等学が必要なのか」と疑問を引き起こすのである。


/「定慧等学」によって「明見仏性」するが、「明見仏性」のところに「定慧等学」の学はあるのである、と交差することは、断惑証理(煩悩を断ちきれば仏道を体認する)・証理断惑(仏道を体認すれば煩悩は断ち切られる)と理解するほどの意味である。


/「定慧等学、明見仏性、此理如何」を言い換えて、「仏性等学、明見仏性、此理如何」と言うのは、「仏性」と「定慧」は等しくて異ならない道理を表す意である。

/そもそも、「定慧」の二つを置いてこそ「等学」ということができ、仏性の上で等の字は用がないようだけれども、すでに「定慧等学」を仏性と言ったので、仏性はそのまま等学〈仏性等学〉と言われるのである。


/「明見仏性のところに等学の学があるなり」と言うからといって、必ず、学をおくのではない。「仏性」が「学」であるので、置く、置かないの意味にも及ばないのである。およそ、「仏性等学、明見仏性」〈仏性等学すれば、明見仏性なり〉とも、また、「明見等学、等学仏性」〈明見等学すれば、等学仏性なり〉も、「定慧仏性、明見等学」〈定慧仏性すれば、明見等学なり〉とも言うことができる。「定慧等学、明見仏性」〈定慧等学すれば、明見仏性なり〉の言葉は、皆「悉有」である。それぞれが異なっていないからである。


/およそ、仏道には戒・定・慧の三学がある。戒は業道(悪い行い)を滅しても煩悩を断じないのである。もっとも、仏戒と言う時は煩悩が残るところがない道理であるから、菩薩戒(大乗の菩薩が受持する戒)・仏戒(仏が制定された戒)は、是非心得るべきである。定は煩悩を断じる。また、定が多く慧が少ないことがあり、慧が多く定が少ないことがあり、定は前で慧は後ということがある。ここの「定慧等学、明見仏性」の由来は、これらに等しくないのである。


/「仏性等学」とは、一法(一つのもの)を「等学」と言うのである。又、同一ということもある。



〔『正法眼蔵』私訳〕

黄檗が師匠の南泉の茶堂(随意に茶を呑む茶寮)の中で坐禅していた。(黄檗、在南泉茶堂内坐。《黄檗オウバク、南泉ナンセンの茶堂サドウの内に在って坐す。》)


そこで南泉が、黄檗に尋ねた、「定(禅定)と慧(智慧)を等しく学べば、仏性を明らかに見ることができる。この理はどうか」。(南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。《南泉、黄檗に問ふ、「定慧等学ジョウエトウガク、明見仏性ミョウケンブッショウ。此の理如何イカン」》)



                         合掌


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...