〔聞書私訳〕
/「定慧等学、明見仏性。此理如何」の言葉は、第三段の「山河大地皆依建立センガダイチカイエコンリュウ、三昧六通由茲発現サンマイロクツウユウジホツゲン」(山河大地は皆依って建立し、三昧と神通力はこれによって現れる)と理解を合わすべきである。
/この問いに対して、答えの言葉を言うのは難しい。その理由は、「明見仏性、此理如何」と尋ねれば、「定慧等学するのだ」と答えることができるところだが、それを遮って「定慧等学すれば明見仏性である」と言うと、答えがないようなものである。
もっとも、「この理如何」というのが、そのまま「明見仏性」の道理である。以前にも、「如何」という言葉が、問いのようであるが答えとなることは、既に触れたことである〔如何か仏〈如何なるも仏〉〕。「この理如何」という言葉によって、いかにも仏性が現れるのである。
/「この理如何」とは、「定慧等学」と「明見仏性」を「この理如何」と言われるのである。
又、「諸悪莫作」〈諸々の悪はなすことができない〉という言葉とも理解を合わせるべきである。
/「一切衆生、明見仏性、此理如何」というようなものである。「定慧等学、悉有仏性」というようなものである。「有無等学、明見仏性」とも言える。定は仏性、慧は仏性となる。この「定慧」は、見仏性を助けるものと思われるが、そうではない。通常の意味とは違うのである。そのまま、「この理如何」と言うが、教にはすでに通常の意味とは違った考えが現われるのである。
/仏性明見(仏性の明見)の所に「定慧等学」は現われるのである。そうであると言っても、これもやはり見るものと見られるものが二つであるように理解されるであろうところだが、「たれが所作なるぞと道取せんもをなじかるべし」(誰が見るのかと言っても同じであろう)と言うのである。仏性を現わすのは衆生であり、衆生を現すのは仏性なのである。
/「定慧等学」と説く「学」は、学び取って証するところを現す「学」である。世間で人が理解する「学」は、初入ショニュウの学だけを知って、ほかならぬ証道(道をさとる)の「学」を知らないようなものである。このために、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」という言葉に迷って、「明見仏性のところに、なおも定慧等学が必要なのか」と疑問を引き起こすのである。
/「定慧等学」によって「明見仏性」するが、「明見仏性」のところに「定慧等学」の学はあるのである、と交差することは、断惑証理(煩悩を断ちきれば仏道を体認する)・証理断惑(仏道を体認すれば煩悩は断ち切られる)と理解するほどの意味である。
/「定慧等学、明見仏性、此理如何」を言い換えて、「仏性等学、明見仏性、此理如何」と言うのは、「仏性」と「定慧」は等しくて異ならない道理を表す意である。
/そもそも、「定慧」の二つを置いてこそ「等学」ということができ、仏性の上で等の字は用がないようだけれども、すでに「定慧等学」を仏性と言ったので、仏性はそのまま等学〈仏性等学〉と言われるのである。
/「明見仏性のところに等学の学があるなり」と言うからといって、必ず、学をおくのではない。「仏性」が「学」であるので、置く、置かないの意味にも及ばないのである。およそ、「仏性等学、明見仏性」〈仏性等学すれば、明見仏性なり〉とも、また、「明見等学、等学仏性」〈明見等学すれば、等学仏性なり〉も、「定慧仏性、明見等学」〈定慧仏性すれば、明見等学なり〉とも言うことができる。「定慧等学、明見仏性」〈定慧等学すれば、明見仏性なり〉の言葉は、皆「悉有」である。それぞれが異なっていないからである。
/およそ、仏道には戒・定・慧の三学がある。戒は業道(悪い行い)を滅しても煩悩を断じないのである。もっとも、仏戒と言う時は煩悩が残るところがない道理であるから、菩薩戒(大乗の菩薩が受持する戒)・仏戒(仏が制定された戒)は、是非心得るべきである。定は煩悩を断じる。また、定が多く慧が少ないことがあり、慧が多く定が少ないことがあり、定は前で慧は後ということがある。ここの「定慧等学、明見仏性」の由来は、これらに等しくないのである。
/「仏性等学」とは、一法(一つのもの)を「等学」と言うのである。又、同一ということもある。
〔『正法眼蔵』私訳〕
黄檗が師匠の南泉の茶堂(随意に茶を呑む茶寮)の中で坐禅していた。(黄檗、在南泉茶堂内坐。《黄檗オウバク、南泉ナンセンの茶堂サドウの内に在って坐す。》)
そこで南泉が、黄檗に尋ねた、「定(禅定)と慧(智慧)を等しく学べば、仏性を明らかに見ることができる。この理はどうか」。(南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。《南泉、黄檗に問ふ、「定慧等学ジョウエトウガク、明見仏性ミョウケンブッショウ。此の理如何イカン」》)
合掌
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