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正3-11-2『第三仏性』第十一段その2〔行脚アンギャ中の飲み水代はしばらくおいておこう、しかし履き破ったわらじ代は誰に返させるのか〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

南泉ナンセンイワク、「莫便是長老見処麼マクベンゼチョウロウケンジョマ《便ち是れ長老の見処なることなきや》」。


黄檗オウバクイワク、「不敢フカン」。


南泉云、「漿水銭且致ショウスイセンシャチ、草鞋銭教什麽人還ソウアイセンキョウジュウモニンゲン《漿


水銭は且シバラく致く、草鞋銭は什麽人ナニビトをしてか還カエさしめん》」。


黄檗便休ベンキュウ《黄檗便ち休す》



〔『正法眼蔵』私訳〕

南泉(黄檗の師)は言う、「これはお前の会得した処かな、それともどうか」。

(南泉云、「莫便是長老見処麼マクベンゼチョウロウケンジョマ《便ち是れ長老の見処なることなきや》」。)


黄檗は言う、「いやいや、どういたしまして」。(黄檗曰、「不敢フカン」。)


南泉は言う、「行脚アンギャ中の飲み水代はしばらくおいておこう、

しかし履き破ったわらじ代は誰に返させるのか」。

(南泉云、「漿水銭且致ショウスイセンシャチ、草鞋銭教什麽人還ソウアイセンキョウジュウモニンゲン《漿水銭は且シバラく致く、草鞋銭は什麽人ナニビトをしてか還カエさしめん》」。)


黄檗は、そこで休んだ。(黄檗便休ベンキュウ《黄檗便スナワチち休キュウす》。)

〔「わらじ代の貸し倒れじゃ」と貶ケナされたようなことを言われても、黄檗は一向平気で黙した。その人とその人だから何ともない。言うべきを言い、休すべきを休す、ここが実に仏性現前である。〕


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