スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-10-2②『第三仏性』第十段その2②〔この身心〈是仏〉の在る処が、すなわち清浄で至妙な仏国土なのである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

現前の衆縁シュエンと認ずるは使得無礙風シトクムゲフウなり。


これ最上乗なる是仏ゼブツなり。


この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。



〔抄私訳〕

・「現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり」と言う。これもただ、「現前の衆縁」も、行住坐臥ギョウジュウザガ(行く、住む、坐す、臥す)の進退動揺(起居動作)も、みな「使得無礙風」(礙りの無い風を使い得る)の道理であるというのである。


・「これ最上乗なる是仏なり」と言う。「この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり」と言う。この「是仏」というのも、突然出てきたような言葉であるけれども、「最上乗」の仏性であるなどというほどの言葉である。


〔聞書私訳〕

/「現前の衆縁」とは、我々のことを言うようであるが、ここでは「無礙風」と説かれたので、「現前の衆縁」とは仏法の衆縁であるから、「無礙風」と説かれるのは「仏性の処在」である。我々の五蘊を無理して、「衆縁」とも「不壊身」とも言うのではないのである。


/そもそも、「仏性の処在」ということは、多くあちこちで嫌われた言葉である。ここでも用いてはならないと思われるが、ここはそういうことではない。「処在」は仏性の全面を説くからである。


/「使得無礙風」、「仏性の処在」、「浄妙国土」、これらは以前に見た道理である。「生を使得」とは、「生也全機現」であり、「死を使得する」というのも同じく「死也全機現」である。生を愛しないのは全生(全てが生)であり、死を恐れないのは全死(全てが死)である。


/結局、この段は、「是れ仏有仏性なり」〈この仏としてのありようが仏性である〉をとるのである。「最上乗」(最上の乗りもの)「上上智」(最も勝れた智)「仏道立此人」〈もとから仏道によって生きている人〉「導師」「使得無礙風」「無礙慧」と、仏のそれぞれの徳を表す言葉はたくさんあるが、ただ仏と説くのである。


「後に能く使得」(ここでよく使い得る)とあるときは、どれも仏についてのことであるから、「因果」も「福智」も「自由」であり、世間のなす業(わざ)ではない。「生死」とはあるけれども、全機現(全分のはたらきの現成)であるので、「とどめられず」「さへられず」とあるからには、また、我々の「生死」のようなものではない。


「五陰に処す」とあるけれども、門が開かれたように自由であり、これが解脱である。だから、五蘊にも妨げられず、去るのも留まるのも難しいことはないのである。


/このように言っても、本当に法文の道理に落着する時は、世間の行為をとらない。「因果を使得す、福智自由なり」とも言い、「生死」も我々の生死ではなく全機の上の生死であるなどと言えば、仏道と世間を使い分けているように受け取られる。


本当に世間の方からは、仏道を遠く隔てるけれども、仏法の方からは世間といって除くことはないから、ただ難しく世間と選り分けて除かなくても、「因果を使い得て福も智も自由であり、生死にも留められず礙えられず、五蘊の門が開く」と心得るのが正しい解釈である。


「恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身も、但能く恁麼なれば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり」と結ばれる。ただ、五蘊は不壊身フエシン〈壊れない身:法身〉であり、造次ゾウジ〈一瞬一瞬の働き〉は門開〈解脱の門がからりと開けている〉であると心得るべきなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この身心が現前するのは様々な因縁によっていると認めることは、礙りの無い風〈仏智慧〉を使い得ることである。(現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。)



これがすなわち、最上の乗りものであるこの身心〈是仏〉である。(これ最上乗なる是仏なり。)


この身心〈是仏〉の在る処が、すなわち清浄で至妙な仏国土なのである。(この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。)


                          合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕

「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩 ミ る様子から学ぶべきである。 (眼見目覩 ガンケンモク ト にならふべし。) 」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか? 私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。 実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。 ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。 物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。 しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。 これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村