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正3-11-1①『第三仏性』第十一段その1①〔定と慧を等しく学べば仏性を明らかに見ることができる〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

黄檗オウバク、在南泉ナンセンの茶堂サドウ内坐。《黄檗、南泉の茶堂の内に在って坐す。》


南泉問黄檗、「定慧等学ジョウエトウガク、明見仏性ミョウケンブッショウ。此理如何シリイカン」。《南泉、黄檗に問ふ、「定慧等学、明見仏性。此の理如何イカン」》



〔抄私訳〕

・南泉は馬祖バソの門下であり、南泉普願フガン禅師と号する。黄檗は馬祖の法孫で、百丈大智禅師の弟子であり、黄檗断際禅師と号する。


・上の言葉を釈されるのに、「いはゆる定慧等学の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり。此理如何と道取するなり」(いわゆる定慧等学の根本の趣旨は定を学ぶことが慧を学ぶことを妨げないので、等しく学ぶところに仏性を明らかに見ることがあるのではない、仏性を明らかに見るところに定と慧を等しく学ぶ学があるということである)と言う。


『涅槃経』に、「二乗(声聞・縁覚)は、定が多く慧が少ないから、仏性を見ることは蛍が出す光のようである。菩薩は、慧が多く定が少ないから、仏性を見ることは星のようである。如来は、定と慧が均等であって仏性を見る」とある。


これは確かに、定と慧が相対し、仏性を見るものと見られるものにし、仏性を見るものと見ないものを生じさせている。ここで説くところは、そうではない。


その理由は、定も慧も学も仏性以外のものと理解すべきではないからである。定も慧も仏性であるから、「定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性あるにはあらず、明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」と釈されるのである。


一般には、定と慧を等しく学んで仏性を見ると理解している。ここでは「定慧等学」が「明見仏性」であるから、「明見仏性」の道理がほかならぬ「定慧等学」であるところを、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」と言われるのである。


「此の理如何」というのは、祖門で言う例の言葉である。これも結局、理は数多くあるが、これらの理はどれかと尋ねているように思われるが、これは、定も仏性、慧も仏性、学も仏性、明見導師も仏性である道理が、「此の理如何」と言われるのである。


「如何が仏」『如何なるも仏〉と言うのも、「什麽物恁麼来ジュウモブツインモライ」〈何物〈仏性〉がかくの如く来た〉 の言葉も、「説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ(一物を似せて説くもあたらず)の言葉も、みな「如何」と同じ意の言葉である。


このように説くとき、言葉に惑乱されず、仏法の道理が辺際無く、解脱の理が隠れないのである。「明見仏性はたれが所作なるぞと道取せんと同じかるべし」(明見仏性は誰の所作であるのかと言っても同じであろう)と言うのも、「明見仏法」の道理がこのように言われるのである。


人をおいて誰の所作かと言うのではない。仏法の道理が、「此理如何」と言われるように誰の所作かと言われるのである。ただ結局、仏性でない一物もないから、このように言われるのであると心得るべきである。


この道理がおもむくところが、則ち「仏性等学、明見仏性、此理如何と道取せんも道得なり」と釈されるのである。


                          合掌


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

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