〔『正法眼蔵』本文〕 いま大潙道の理致 リチ は、「一切衆生無仏性」を理致とせり。 いまだ曠然 コウゼン 縄墨外 ジョウボクゲ といはず。 自家屋裏 ジケオクリ の経典、かくのごとくの受持あり。 〔抄私訳〕 ・また、「大潙道の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり。いまだ曠然 コウゼン 縄墨外 ジョウボクゲ といはず。自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。さらに摸索すべし」と言う。 これは、大潙は既に「一切衆生無仏性」を理の極致とするので、「曠然」とは遙かであるということである。「縄墨外」とは墨縄で引いた墨すじの外である。たとえば、墨すじの内外に関わらず、「一切衆生無仏性」の道理の外はないという意味合いである。「自家屋裏」とは、自家とは大潙であり、仏性である。経典とは決して普通の経巻ではない。今は仏性を経典とし、その内でこのように受持 (受け保つこと) があり、これを探り求めるべきというのである。 〔聞書私訳〕 /「無仏性を理知とせり、いまだ曠然 コウゼン 縄墨外 ジョウボクゲ といはず」とは、一般には「縄墨外」を理解するのに、「縄墨」は分量に関わるから、衆生の考え方に当てはめ、衆生の考え方の外という意味で「縄墨外」と言う。 「外」という時を、仏法と理解するけれど、これはそうではない。「縄墨外」を、初めから大潙の「理致」とするのであるから、大潙は自分が言う理を、こと新しく「縄墨外」と言わないのを、「曠然縄墨外といはず」と説かれるのである。 /大潙は、初めから「縄墨外」よりほかのことを知らないことが、「無仏性」を「理致」としているということである。「無仏性を理致とせり」、だから「曠然縄墨外」と言ってもいいであろう。しかしここでは、「無仏性」と「理知」をあげたときに、「縄墨外といはず」と言うのである。 /世俗の言葉にも、「上徳は徳なし、下徳は徳あり」ということがある。 徳が多く失が少ないのを、徳と言う。 失が多く徳が少ないのを、失と言う。 徳が有り失がないのを、徳と言わない。 失が有り徳がないのを、徳と言わない。 失が有り徳がないのを、失と言わない。 だから、「大潙道の理致」は「縄墨外といはず」と言うのである。徳と失が並ばず独立している時は、徳とも失とも言うことは難しいからこのよ...