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正3-7-1①『第三仏性』第七段その1①〔天竺テンジク国の龍樹リュウジュ尊者ソンジャ〕

〔『正法眼蔵』本文〕

第十四祖龍樹尊者、梵云那伽閼刺樹那。《第十四祖龍樹リュウジュ尊者ソンジャ、梵ボンに那伽閼刺樹那ナギャアラジュナと云ふ。》


唐云龍樹亦勝、亦云猛。《唐には竜また勝と云ふ、またミョウと云ふ。》


西天竺国人也。《西天竺テンジク国の人なり。》


至南天竺国。《南天竺国に至る。》


彼国之人、多信福業。《彼の国の人、多く福業を信ず。》


尊者為説妙法。《尊者、為に妙法を説く。》


聞者、逓相謂曰、「人有福業、世間第一。徒言仏性、誰能覩之」。《聞く者、逓相タガヒに謂って曰く、「人の福業有る、世間第一なり。徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる」。》


尊者曰、「汝欲見仏性、先須除我慢」。《汝、仏性を見んと欲オモはば、先ず須スベカらく我慢ガマンを除くべし。》


彼人曰、「仏性大耶小耶」。《彼人曰く、「仏性大なりや小なりや」。》


尊者曰、「仏性非大非小、非広非狭、無福無報、不死不生」。《尊者曰く、「仏性は大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり」。》


彼聞理勝、悉廻初心。《彼、理の勝スグれたるを聞いて、悉コトゴトく初心を廻メグらす。》


尊者復坐上現自在身、如満月輪。一切衆会、唯聞法音、不覩師相。《尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。一切衆会シュエ、唯タダ法音のみを聞いて、師相を覩ず。》



〔聞書私訳〕

/「尊者、また坐上に自在身を現ず」(尊者は、また法座の上に自在身を現す)とは、皮肉骨髄が仏性であるというのである。


/「満月輪の如し」(満月輪のようである)とは、隠れる所がないからである。月のように、無駄に円いと説くなら、円くもなく四角もないと言うことはできない。


/「一切衆会シュエ、唯タダ法音のみを聞いて、師相を覩ず」(すべての聴衆は、ただ法音だけを聞き、尊者の姿を見なかった)と言う。我の声だけを法音と言うことはできないから、仏性のことを法音と言い、師の姿を見ないとは、すでに仏性を現しているから師の姿は見えないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

インド仏教の第十四祖龍樹尊者リュウジュソンジャは、梵ボン(サンスクリット語)でナーガルジュナと言う。(第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那ナギャアラジュナと云ふ。)


唐では樹、或いは勝と言い、またミョウとも言う。(唐には龍また勝と云ふ、また猛と云ふ。)


西インドの人である。(西天竺国の人なり。)


のちに南インドに来た。(南天竺国に至る。)


その国の人は、多く福業(善い行いをすると幸福になること)を信じていた。(彼の国の人、多く福業を信ず。)


尊者は、人々に仏の優れた教え(妙法)を説いた。(尊者、為に妙法を説く。)


すると、それを聞いた人たちは、互いに言い合った、「人に福業があることが、世間で一番大切なことだ。やみくもに仏性と言っても、誰が仏性なんか見ることができよう」と。(聞く者、逓相に謂って曰く、「人の福業有る、世間第一なり。徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる」。)


尊者は、「汝、仏性を見ようと思うなら、まず我慢〈我を立てておごり高ぶる心〉を除かなければいけない」と言った。(尊者曰く、「汝仏性を見んと欲オモはば、先ず須スベカらく我慢ガマンを除くべし」。」


ある人が、「仏性は大きいものですか、小さいものですか」と尋ねた。(彼人曰く、「仏性大なりや小なりや》」。)


尊者は、「仏性は大きくもなく小さくもなく、広くもなく狭くもなく、幸福もなく業の報いもなく、死もなく生もない」と言った。(尊者曰く、「仏性は大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり」。)


その人は、龍樹の道理が勝れていることを知り、すべてそれまでの考えを改めた。(彼、理の勝スグれたるを聞いて、悉コトゴトく初心を廻メグらす。)


尊者は、また法座の上で自在身〈坐禅の姿〉を現し、それは隠れるところがなく満月のようであった。(尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。)


すべての聴衆は、ただ法音を聞くだけで、尊者の姿を見ることはなかった。(一切衆会唯法音のみを聞いて、師相を覩ず)。


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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