〔『正法眼蔵』本文〕 諸法の仏法なる時節、 すなはち迷悟あり、修行あり、生 ショウ あり、死あり、諸仏あり、衆生 シュジョウ あり。 〔抄私訳〕 「諸法の仏法なる時節」 〈森羅万象が仏法である時節: 今ここがこのようにある時節〉 として示すのは、森羅万象 シンラバンショウ が皆仏法だと説く時節 を言うのである。迷より衆生まで、上に七種を挙げられた。森羅万象 をことごとく挙げるべきだが、そのように書き尽すことはできないので、省略されたのである。しかし、挙げる法 (もの) の数が少ないからといって、不足を言うべきではない。ただ初めの「迷」 〈無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回されること〉 という一つの法が究め尽くす時は、挙げる法の数が多くないからといって、決してその理 (ことわり) が違うことはない、一つか多いかの数に拘らないからである。仏法の道理とはこのようなものである。 この迷悟有りから衆生有りまでの「有り」は、無と相対 アイタイ する有りではない。しかし、仏法上で「迷・悟、諸仏・衆生」と言うからには、「有り」と言っても支障はないのである。 「諸法の仏法なる時節」とは、仏法である時の法 について説かれるのを、世間の我々の考えをつかんだままで理解しようとするのは、丸い穴に角材を入れようとするのようなものである。 〔聞書私訳〕 /第一段の「諸法の仏法なる時節」 〈今ここがこのようにある時節〉 は 、 「是れ什麼物 ナニモノ か恁麼 インモ に来 キタ る」 〈是れと呼ばれるすべてのものは何物 〈仏性〉 がこのように現成しているのである〉 である。第二段の「万法 マンボウ ともに我にあらざる時節」 〈あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節〉 は、「一物を説示 セツジ せんとするも、即ち中 アタ らず」 (一つのものを説き示そうとしても、的中しない) にあたる。そうであるから、両段の意は一つとなるので