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正1-0『正法眼蔵第一現成公案』〔今向かうとこのようにあることは、差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようである〕

正法眼蔵抄第一現成公案(聞書抄PDF)                       


〔抄私訳〕

『現成公案ゲンジョウコウアン』                             

「現」は、隠れているものが表に現れるという現ではない。            

「成」は、学を作すことではない。                       

「公」は、平等のことである。                         

「案」は、分を守るということである。                       

不平を平ぐることを名づけて「公」と言い、分を守ることを名づけて「案」と言う。    


〔『現成公案』第八段に、「悟跡ゴシャクの休歇キュウカツなるあり、休歇なる悟跡を長々出チョウチョウシュツならしむ」とあるが、〕                               「休歇」は「止む」という意味である。「長々出」は悟であり、長いことではなく、際限が無いということである。                         「悟跡の休歇」(悟りの跡形が止む)「休歇なる悟跡」(止んだ悟りの跡形)とは、「諸法〈今向かうとこのようにあるもの〉は実相(真実のすがた)である」「実相は諸法である」というようなものである。一般には、悟の後は悟れば止むというが、こういう意味合いでは「休歇なる悟跡」とは言い難い。


〔『現成公案』第十五段にある〕「見成ケンジョウこれ何必カヒツなり」〈見えているものは、何々だと限定できるものではない〉とは、「是れ什麼物ナニモノが恁麼インモに来キタる」〈是れと言われるすべては何物〈仏性〉がこのように現成しているのである〉という意味合いである。

         

『正法眼蔵抄 正法眼蔵第一現成公案』                       平不平名曰公:不平を平らぐことを名づけて公と曰〈差別と平等と一つであることを公と言う〉                               守分名曰按:分を守ることを名づけて案と曰う〈全分のはたらきの今のありようを守ることを案と言う〉

『正法眼蔵第一現成公案』                           〈正法眼蔵涅槃妙心ネハンミョウシン:釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と全宇宙の真相を道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵。第一巻現成公案:今向かうとこのようにあることは、差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようである。〉

注:〔 〕内は著者の補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。

                              合掌

                                 

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...