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正1-0-1 題目の事『正法眼蔵』〔釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と全宇宙の真相を道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵〕

〔抄私訳〕

 仏教経典の教えの通例では、題目(表題)がそのまま仏法の大意を明かすことがある。また、喩えを題目とすることもある。また、人の名を題目とすることもある。今の『般若経ハンニャキョウ(空を説いた経)などは、そのまま仏法の題目である。『妙法蓮華経』(すべては仏の現れであることを説いた経)の蓮華レンゲは喩えである。『勝鬘経ショウマンギョウ(悟った在家の勝鬘夫人が一乗真実の理について説いた経)などは、人の名をとったものである。

この『正法眼蔵』という名は、これこそまさに仏法を示す名である。仏が迦葉カショウに付属(正法を授け、その護持を託すること)されたとき、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶マカ迦葉に付属す」と仰オオせられたので、宗門(仏法の宗家である禅門)の心地を述べる文の名には、『正法眼蔵涅槃妙心』第一巻・第二巻と言うべきであるけれども、下の四字を省略して『正法眼蔵』と言うのである。

宗門では、特に依るべき経がないので、経について定めることもない。『涅槃経ネハンギョウ(お釈迦さまの晩年に説かれた経)があるが、「涅槃」の言葉をとって涅槃宗と言うこともできるであろう。そうではあるが、仏が『涅槃経』と仰せられたお言葉はない。「妙心」とあるので、この『正法眼蔵』は何に付いても言うことができるであろう。釈尊が拈花瞬目ネンゲシュンモクされた(花を拈じて目を瞬かせた)ので、拈花宗とも、或いは破顔微笑ハガンミショウされたので、破顔宗とも言うことができるが、そのことも又いわれがない。                                    

〔これまでの前文が、経豪キョウゴウ和尚の注釈書「正法眼蔵抄」です。次段からの文頭に「/」印が付されている文が、詮慧センネ和尚の注釈書「正法眼蔵聞書」です。詮慧和尚の「聞書」を、自身の注釈の助証として掲載したと奥書にあります。聞書」には、詮慧和尚が元天台学僧であったことから、天台教学を批判しつつ、永平開山の仏法を宣揚している箇所が頻出しますが、「抄」になるとそういう所は影をひそめ、もっぱら師説を踏まえて『正法眼蔵』そのものの宗旨を解明することに集中していることが文面から伺われます。〕 

〔聞書私訳〕

/或いは祖師(天竺からシナに仏法を伝えた達磨大師)の名をとって達磨宗と言う、或いは心性を学ぶと理解して、仏心宗などと言うのも、何れも相応しくない。仏はすでに「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と仰せられているので、私的な言葉を用いるべきではない。仏の御言葉の中で何を捨て何を取るべきか。仏眼宗とも言えようし、拈花宗とも言えよう。なぜ心の字ばかりを取るのか。結局、心という字の意味を知らないからである。「吾有正法眼蔵涅槃妙心」とあるので、この十文字を取れば何れの道理も違わないのである。             

/『正法眼蔵』の題目は喩えでもない。人に対さず、随他意ズイタイ(他の機根に随って説法する)の機(はたらき)でもなく、随自意(自己の意のままに説く)である。また、自己の意に随うといっても、他に対する自己ではない。すでに「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」とあり、これを正しく伝えた。どうして新たに宗の名を立てる必要があろうか。

                             合掌      

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