スキップしてメイン コンテンツに移動

『正法眼蔵』『正法眼蔵聞書抄』私訳にチャレンジ〔はじめに、未だ見ぬ次世代のあなたへ〕


『正法眼蔵ショウボウゲンゾウ』は、道元禅師ドウゲンゼンジが自己と宇宙の真相について釈尊と同じように自覚され、その内容を言語化されたものです。日本人の精神史上最高峰の著作と言われています。それを直弟子の詮慧和尚センネオショウが歴史上最初の注釈書「聞書」を著し、その弟子の経豪キョウゴウ和尚が道元禅師の宗意に肉薄する注釈書「抄」を加筆し『正法眼蔵聞書抄』を遺されました。 

二年程前、「正法眼蔵聞書抄」のPDFと出会い、少し読んでみると長年の疑問のいくつかがクリアーになりました。現代語訳を探しましたが、一部あるだけでした。そこで、浅学非才にもかかわらず、『正法眼蔵聞書抄』の私訳と、それも参考にしながら『正法眼蔵』七十五巻の読解に取組み始めました。

幸いにも、大本山總持寺の伝光会摂心で提唱を聴聞させていただいたご縁があり、昨秋から前駒澤大学総長池田魯参先生の添削指導を頂戴できるようになり、全面的に書き改めております。   

つきましては、人類の叡智である『正法眼蔵』の読解を、道を求める方のご参考になればと願いつつ、改めて最初からお届けしたいと思います。忌憚のないご意見など頂戴できれば、大変ありがたく存じます。よろしくお願いいたします。  


ところで、『正法眼蔵』は宗教書ですが、同時に人類の叡智と通底する哲学書でもあると、私は考えています。一例を上げてみましょう。

私とは何か?(現代脳科学)

苦しみとは何か?(現代医学、現代心理学)

物質とは何か?(アインシュタインの相対性理論、量子力学)

宇宙とは何か?(現代宇宙論、量子力学)

存在とは時間とは何か?(ハイデッガーの『存在と時間』)

人間の実存とは何か?(サルトルの実存主義哲学)

社会の構造とは何か?(レヴィ・ストロースの構造主義)

現代科学・現代哲学と通底する日本人独自の哲学書であり、これまでの日本人が著した最高の著述物ではないかと考えています。混迷を究める人類社会の課題解決に資する、現代科学と共に歩める日本人発の新しい哲学が求められていると思っています。


私にはそれを成し遂げる能力もなく、時間も残されていません。でも、その前段として原点の『正法眼蔵』を現代語訳して遺すことはできるかもしれません。


未だ見ぬ次世代のあなたに:

『正法眼蔵』を読み、1万年以上にわたる日本人の奥深い精神生活が結晶化した道元禅師の深い哲学に親しみ、混迷する人類社会に新しい道を提示し、人類の未来にインスピレーションを与える日本人発の新しい哲学を創りだしてください。お願い致します。 

 令和五年五月                                                      

                        羽田 徹眞 九拝



最後までお読みいただきありがとうございます。皆さまに『正法眼蔵』に触れていただける機会をご提供したく、ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 合掌

   ↓             ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ にほんブログ村  にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ にほんブログ村      


にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕

「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩 ミ る様子から学ぶべきである。 (眼見目覩 ガンケンモク ト にならふべし。) 」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか? 私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。 実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。 ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。 物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。 しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。 これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村