〔聞書私訳〕
/また、「現成公案」〈今向かうとこのようにあることは、差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようである〉ということは、どのようなことについても言うことができる。有の法を説くような時にも、有の「現成公案」と言うことができ、無の法を説くような時にも、無の「現成公案」と言うことができ、有に非ず空に非ずと説くような時にも、「現成公案」と言うことができる。この『正法眼蔵』七十五帖が連なる一々の草子(とじ本)の巻の名を、すべて『現成公案』と言うこともできる。迷の現成もあろう、悟の現成もあろう、払子ホッス(獣毛等を束ねて柄を付けた法具)・柱杖シュジョウ(僧の杖)の現成もあろう、その理が現成するということであるから。
この迷とは、「諸法が仏法である時節」〈今向かうとこのようにある時〉の迷を指すのである。〔迷という時は、すべてのものが迷である。〕つまるところ、『現成公案』とはこの宗門(仏法の宗家である禅門)の意義を表す意である。「公案」〈差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありよう〉とは、この『正法眼蔵』〈釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と全宇宙のありようを道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵〉を言うのである。 しかし、「現成」〈今向かうとこのようにある〉といっても、以前は現れなかったことが、今現れるということではない。隠れたり没したりすることに対する現成と理解してはならない。現成を嫌うのであれば、かえってその言葉を避けるべきである。その言葉を避けるのであれば、仏が「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と仰せられた御言葉も用いてはいけないのか、そうではない。
/「成」の字はよくよく理解しなければならない。或る学者は、「即身成仏(肉体がそのまま仏に成る)の意味を論じるときに、即身成仏と説く言葉は仏法と言い難い、肉体がそのまま仏に成るというような仏は尊ぶべきではなく、非常に劣っている、云々」と言っている。この非難は、ひとまずは、誠に充分すぎる意味があるように理解できるが、即身という具足(欠ける所なく具える)の成仏を、世間で言う「成」と理解してはならない。仏の上で「成」を理解すべきである。
『法華経ホケキョウ』の註釈に、「衆生が教の如く行ずれば自然ジネンに仏道を成ずる」と言う。「教の如く行ずる」と言うと、「自然」の言葉が相応しくなく受け取られるが、この「教えを行ずる」とはどれくらいとは示していない。だからこそ、この経の説く内容は甚だ深いのである。「自然」とあるが、外道の自然見ジネンケン(生まれたそのままで仏道を得ているという見解)の意味ではない。「教えを行ずる」というのも、果報を待つ行ではないのである。今の「現成」の成は成仏〈成っている仏〉の成と理解すべきである。
/この「公案」という言葉は、世俗の家から出ているが、在家人、出家人のどちらにも理解されるべきである。「平不平名曰公:不平を平らぐことを名づけて公と曰イう」とある。先ず、世間が乱れたら、それを平らかにすることが、とりわけ「公」である。徳政(民に恩恵を施すよい政治)を行ったら、それを不平を平ぐると言うのである。「守分名曰按:分を守ることを名づけて案と曰う」、どんなことについても分を守って乱れなければ、それをとりわけ「案」と言うのである。これほどまでに外道の法も理解すべきである。声聞ショウモン(仏法を聞いて修行する者)・縁覚エンガク(他者の教えによらず自ら縁起の法を観じて覚る者)・菩薩ボサツ(悟りを求めて修行するとともに、他の者を救いに導こうと努める者)等の修行においても、皆それぞれの位で、「不平を平げ分を守る」べきである。 このようであるから、今の七十五帖の草子の巻の名は変わっても、巻ごとの『現成公案』である。 総じて法文ホウモン(仏の教えを記した文章)を理解し、道理を立てるのも、また、ただ一つの道理である。能所ノウジョ(主客)の分離相対も無く、彼此ヒシ(自他)の分離相対も無く、「全機」〈全分のはたらき〉の道理のみを明きらかにするのである。第一巻の『現成公案』において、第七十五巻の『出家』までが同じ「全機」の道理であることを述べるのである。
/そもそも、この「不平を平らぐ・分を守る」という言葉を世間と同じように理解することは、また本意ではない。不平ということはどこまでとは定め難い。平と不平との違いは、どんなことを目印として定められるのであろうか。平(平等)と不平(差別)は一つであると理解する以上は、不平(差別)を直して平(平等)にするとは言い難い。分を守ることも、分際があるのであれば、こちらの仏法と取ることはできない。「全機」の「不平を平らぐ・分を守る」〈差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようを守る〉でなければならない。
合掌
*注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
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