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正1-0-2 題目の事『現成公案』〔今向かうとこのようにあることは、差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようである〕

〔聞書私訳〕       

/また、「現成公案」〈今向かうとこのようにあることは、差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようである〉ということは、どのようなことについても言うことができる。有の法を説くような時にも、有の「現成公案」と言うことができ、無の法を説くような時にも、無の「現成公案」と言うことができ、有に非ず空に非ずと説くような時にも、「現成公案」と言うことができる。この『正法眼蔵』七十五帖が連なる一々の草子(とじ本)の巻の名を、すべて『現成公案』と言うこともできる。迷の現成もあろう、悟の現成もあろう、払子ホッス(獣毛等を束ねて柄を付けた法具)・柱杖シュジョウ(僧の杖)の現成もあろう、その理が現成するということであるから。              

この迷とは、「諸法が仏法である時節」〈今向かうとこのようにある時〉の迷を指すのである。〔迷という時は、すべてのものが迷である。〕つまるところ、『現成公案』とはこの宗門(仏法の宗家である禅門)の意義を表す意である。「公案」差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようとは、この『正法眼蔵』釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と全宇宙のありようを道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵〉を言うのである。                          しかし、「現成」〈今向かうとこのようにある〉といっても、以前は現れなかったことが、今現れるということではない。隠れたり没したりすることに対する現成と理解してはならない。現成を嫌うのであれば、かえってその言葉を避けるべきである。その言葉を避けるのであれば、仏が「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と仰せられた御言葉も用いてはいけないのか、そうではない。 

/「成」の字はよくよく理解しなければならない。或る学者は、「即身成仏(肉体がそのまま仏に成る)の意味を論じるときに、即身成仏と説く言葉は仏法と言い難い、肉体がそのまま仏に成るというような仏は尊ぶべきではなく、非常に劣っている、云々」と言っている。この非難は、ひとまずは、誠に充分すぎる意味があるように理解できるが、即身という具足(欠ける所なく具える)の成仏を、世間で言う「成」と理解してはならない。仏の上で「成」を理解すべきである。

『法華経ホケキョウ』の註釈に、「衆生が教の如く行ずれば自然ジネンに仏道を成ずる」と言う。「教の如く行ずる」と言うと、「自然」の言葉が相応しくなく受け取られるが、この「教えを行ずる」とはどれくらいとは示していない。だからこそ、この経の説く内容は甚だ深いのである。「自然」とあるが、外道の自然見ジネンケン(生まれたそのままで仏道を得ているという見解の意味ではない。「教えを行ずる」というのも、果報を待つ行ではないのである。今の「現成」の成は成仏〈成っている仏〉の成と理解すべきである。    


/この「公案」という言葉は、世俗の家から出ているが、在家人、出家人のどちらにも理解されるべきである。「平不平名曰公:不平を平らぐことを名づけて公と曰う」とある。先ず、世間が乱れたら、それを平らかにすることが、とりわけ「公」である。徳政(民に恩恵を施すよい政治)を行ったら、それを不平を平ぐると言うのである。「守分名曰按:分を守ることを名づけて案と曰う」、どんなことについても分を守って乱れなければ、それをとりわけ「案」と言うのである。これほどまでに外道の法も理解すべきである。声聞ショウモン(仏法を聞いて修行する者)・縁覚エンガク(他者の教えによらず自ら縁起の法を観じて覚る者)・菩薩ボサツ(悟りを求めて修行するとともに、他の者を救いに導こうと努める者)等の修行においても、皆それぞれの位で、「不平を平げ分を守る」べきである。 このようであるから、今の七十五帖の草子の巻の名は変わっても、巻ごとの『現成公案』である。                        総じて法文ホウモン(仏の教えを記した文章)を理解し、道理を立てるのも、また、ただ一つの道理である。能所ノウジョ(主客)の分離相対も無く、彼此ヒシ(自他)の分離相対も無く、「全機」〈全分のはたらき〉の道理のみを明きらかにするのである。第一巻の『現成公案』において、第七十五巻の『出家』までが同じ「全機」の道理であることを述べるのである。                                     

/そもそも、この「不平を平らぐ・分を守る」という言葉を世間と同じように理解することは、また本意ではない。不平ということはどこまでとは定め難い。平と不平との違いは、どんなことを目印として定められるのであろうか。平(平等)と不平(差別)は一つであると理解する以上は、不平(差別)を直して平(平等)にするとは言い難い。分を守ることも、分際があるのであれば、こちらの仏法と取ることはできない。「全機」の「不平を平らぐ・分を守る」〈差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの今のありようを守る〉でなければならない。  

                                 合掌

*注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...