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正3-11-5②『第三仏性』第十一段その5②〔もしわらじ代を返さなかったら、わらじを履きません〕〔聞書私訳〕

  /「行脚の年月」は、修行の時節である。「草鞋を踏破する」とは、修行が明らかにするところを言うのである。 「草鞋を踏破する」とは解脱の意である。 /「若し銭を還さずは、未だ草鞋を著かじ」という意味合いは、例えば、「煩悩を断ぜず、菩提 ボダイ(悟り) をも証せず」というようなものである。ここでは「定慧等学」 (定と慧を等しく学ぶ) を待たず、「明見」 (明らかに見る) とも言わず、ただ仏性であるというのである。 /「若し銭を還せずは、未だ草鞋を著 ハ かじ」は、「明見仏性はたれが所作なるぞ」 (自己が仏性であることを自覚するとは一体誰のはたらきか) という意味合いである。「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」とは、ここの、「若し銭を還せずは、未だ草鞋を著かじ」というのと同じことである。「什麽人をしてか還さしめん」という理を、「草鞋を著かじ」という言葉に当てるのである。 /「未だ草鞋を著かじ」とは「定慧等学」である。 /「 若し銭を還さずは、未だ草鞋を著かじ 、又いうべし両三両」とある。これも還すべきを還さずというのではなく、わらじを著くのも著くべきを著かないと言うのではない。わらじが仏性であれば、誰が著くことができるかと言うのである。 /「両三両」というのは、「しばらくおく」というのと同じことである。 /「 若し銭を還さずは、未だ草鞋を著かじ 」の言葉は、みな共に解脱の言葉である。つまり、還すべき銭も著くべき人もいない意味合いである。仏性の独立している姿であるから、仏性を仏性に還すまい、拄杖を還すまい、わらじを履くまいなどというほどのことである。これらの意味合いを、「両三両。この道得なるべし」と言うのである。 /「両三両」と「吽々」は同じような言葉である。 /「黄檗便休。これは休するなり」とある。これは「不敢」というほどの意味である。単に言うべき言葉がなくて言わない「便休」ではなく、「便休」の姿がそのまま仏性なのである。祖師の問答でこのようなことは普通のことであり、言語の道が断たれたということではないのである。 《「不肯」、この不肯の言葉は、「黄檗便休」の姿がただ答えないで便ち休すである。述べるべき方法がなくて納得しなかったのでもない。「便ち休す」が仏性を述べた姿なのである。》 /「本色衲子しかあらず」とあるのは、黄檗や南泉等を指すのである。黄檗や南...

正3-11-5①『第三仏性』第十一段その5①〔もしわらじ代を返さなかったら、わらじを履きません〕

〔『正法眼蔵』本文〕 草鞋銭 ソウアイセン なにとしてか管得する。行脚 アンギャ の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。 いまいふべし、「若不還銭、未著草鞋 《若し銭を還せずは、未だ草鞋を著 ハ かじ》 」と。 またいふべし、「両三両」。 この道得なるべし、この宗旨なるべし。  「黄檗便休 オウバクベンキュウ 」 《黄檗すなはち休す》 。これは休するなり。 不肯 フコウ せられて休し、不肯にて休するにあらず。 本色衲子 ホンシキノッス しかあらず。 しるべし、休裏有道 キュウリウドウ は、笑裏有刀 ショウリウトウ のごとくなり。 これ仏性明見の粥足飯足 シュクソクハンソク なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 わらじ代はどうして問題にするのか、無限の行脚の年月にどれくらいののわらじを履き破ってきたのか、というのである。 (草鞋銭 ソウアイセン なにとしてか管得する。行脚 アンギャ の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。) 今言うべきである、「もしわらじ代を返さなかったら、わらじを決して履きません 。」 と。 (いまいふべし、「若不還銭、未著草鞋 《若し銭を還せずは、未だ草鞋を著 ハ かじ》 」と。) 〔そんなことはできるわけがない。わらじを履き破ったら、また買い求めて歩いていく。これは仏性の中で生き通しに生きていることを言い、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」 (「自己が仏性であることを自覚するところに、定と慧を等しく学ぶ修行ができるのである) というのと、同じことである。〕 またこう言えばいいであろう、「行脚でどれだけのわらじを履き破ったてきたかと言うが、ほんの二三足だけです」と。 (またいふべし、「両三両」。) わらじ代を誰に還させるのかと問われたら、まずこのように答えるといい。 (この道得なるべし、この宗旨なるべし。)  「黄檗はそこで休んだ」。これはやめたのである。  (「黄檗便休」 《黄檗すなはち休す》 。これは休するなり。) 黄檗が自分の答えを南泉に許されなかったから休んだのでなく、黄檗が南泉の言ったことを肯 ウケガ わなかったから休んだのでもない。 (不肯 フコウ せられて休し、不肯にて休するにあらず。) 本物の衲子 (禅僧) はそうではない。 (本色衲子 ホンシキノッス しかあらず。) 〔本当にわかったものは、休んでも...

正3-11-4②『第三仏性』第十一段その4②〔飲み水代はしばらくおく、わらじ代は誰に還させるのか〕〔聞書私訳〕

/「漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人してか還えさしめん」と言う、この「漿水」と「銭」とまた「草鞋」と「銭」とはそれぞれ別であり、「あたひ」の「銭」と「漿水」と、或いは、「あたひ」の「銭」と「草鞋」とがあるように思われるけれども、同じ物と心得るべきである。「銭」がなければ「漿水」はない。「銭」がなければ「草鞋」ないからである。又、「鞋」がなければ履くことはできない。 /「定慧等学」は「しばらくおく」、「明見仏性はたれが所作なるぞ」。「たれをしてかかへさしめん」とは、「明見仏性はたれが所作なるぞ」というほどのことである。自己が仏性であることを自覚するのは一体誰のしわざか」。「草鞋のあたひは誰に還させよう」というのは、「自己が仏性であることを自覚するとは一体誰のしわざか」 (明見仏性は誰が所作なるぞ) というほどのことである。 /「草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」とは、また、同じほどのことである。 /「未だ草鞋を著 ハ かじ」とは「定慧を等しく学ぶ」である。 /「明見仏性」も顕れ難いであろう。仏性では、このような道理はとんでもないが、しばらく一つの言葉となるのである。 /「草鞋 ソウアイ (わらじ) 」というのは、行脚に用いる物である。「漿水銭は且く致く」という言葉は、実相 (真実のすがた) は実相であり、実相はどうして実相なのかというほどのことである。 《定慧等学は且く致く、明見仏性は誰にかえさせるのか、という程の事である。》 /「草鞋」のかわりの「銭」を還すとは、参学の極まるところの法を言うのか。そうであれば、誰に還させるのか。 /「この道取の意旨、ひさしく生々をつくして参究すべし」とある。これは則ち仏性の道理だということである。幾生もかけて善業を積まなければ、また、知識や経巻に従わなければ、とても信じ難いことである。このことを「生々をつくして参究すべし」と書かれたのである。 /「漿水 ショウスイ 」 (飲み水) とは、参禅学道の時に用いる濃漿 コンズ である。「漿水」のかわりに「銭」を「かへす」という義 (意味) があってはならない、「かへさず」という義があるべきである。 仏性明見 (仏性が明らかに自覚される) と言い、明見仏性 (仏性を明らかに自覚する) と言う、「定慧等学、明見仏性」 (禅定と智慧を等しく学べば、仏性を明らかに自覚する) の下に、「...

正3-11-4①『第三仏性』第十一段その4①〔飲み水代はしばらくおく、わらじ代は誰に還させるのか〕

〔『正法眼蔵』本文〕  南泉いはく、「漿水銭且致 ショウスイセンシャチ 、草鞋銭教什麽人還 ソウアイセンキョウジュウモニンケカン 《漿水銭 ショウスイセン は且 シバラ く致 オ く、草鞋銭 ソウアイセン は什麽人 ジュウモニン をしてか還 カエ さしめん》 」。 いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。 この道取の意旨、ひさしく生々 ショウジョウ をつくして参究すべし。 漿水銭いかなればしばらく不管 フカン なる、留心勤学 リュウシンキンガク すべし。 〔抄私訳〕 ・「南泉いはく、漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人をしてか還さしめん」と言う。この言葉は大いに驚かされるであろう。ただ、法性だ、実相だ、仏性だなどと言えば、これは仏法のことと思われる。今の「漿水銭 (飲み水代) 」「草鞋銭 (わらじ代) 」と聞くと、堅固な世間の調度品で、何でもない普通のことのように思われる。 随って、「禅門は何でもないことを、ただ口から出任せに言うのだ。雀がチュンチュン、烏がカーカー、人が説けば「無」などと言うほどの言葉だと」と言う族 ヤカラ が多いのである。そうではあるが、これは正嫡 ショウウチャク (正しく伝わること) の仏法を聞かず、正師に遭わない時のことである。 つまるところ、仏祖はただ法の究極を十分に明らかにするから、このように談ずる粗筋を全く知らない時に、このように言うのである。実にあわれなことである。そもそも、仏性のありようは、どのようなものであるかと十二分に功夫し参学しなければならない。 仏性に「漿水銭」「草鞋銭」は背くものか、仏性とは別々にすべきものかと、十二分に心得ると、まったく不審なことはないのである。どうして「漿水銭」「草鞋銭」は仏性の道理を離れるのか。しばらく「漿水銭」で仏性を表し、「草鞋銭」で仏性を表すと、まず心得るべきである。 ・また、「いはゆるは、『こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん』となり」。これは「しばらくおく」は、「漿水銭」は「漿水銭」に置き、「草鞋銭」はまた「草鞋銭」であるから、それを「什麽人をしてか還さしめん」とは、「漿水銭」で仏性を尽くし、「草鞋銭」の究尽する道理が、「什麽人をしてか還さしめん」という道理なのである。 「おく」と言っても、別に引き離し...