/「漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人してか還えさしめん」と言う、この「漿水」と「銭」とまた「草鞋」と「銭」とはそれぞれ別であり、「あたひ」の「銭」と「漿水」と、或いは、「あたひ」の「銭」と「草鞋」とがあるように思われるけれども、同じ物と心得るべきである。「銭」がなければ「漿水」はない。「銭」がなければ「草鞋」ないからである。又、「鞋」がなければ履くことはできない。
/「定慧等学」は「しばらくおく」、「明見仏性はたれが所作なるぞ」。「たれをしてかかへさしめん」とは、「明見仏性はたれが所作なるぞ」というほどのことである。自己が仏性であることを自覚するのは一体誰のしわざか」。「草鞋のあたひは誰に還させよう」というのは、「自己が仏性であることを自覚するとは一体誰のしわざか」(明見仏性は誰が所作なるぞ)というほどのことである。
/「草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」とは、また、同じほどのことである。
/「未だ草鞋を著ハかじ」とは「定慧を等しく学ぶ」である。
/「明見仏性」も顕れ難いであろう。仏性では、このような道理はとんでもないが、しばらく一つの言葉となるのである。
/「草鞋ソウアイ(わらじ)」というのは、行脚に用いる物である。「漿水銭は且く致く」という言葉は、実相(真実のすがた) は実相であり、実相はどうして実相なのかというほどのことである。《定慧等学は且く致く、明見仏性は誰にかえさせるのか、という程の事である。》
/「草鞋」のかわりの「銭」を還すとは、参学の極まるところの法を言うのか。そうであれば、誰に還させるのか。
/「この道取の意旨、ひさしく生々をつくして参究すべし」とある。これは則ち仏性の道理だということである。幾生もかけて善業を積まなければ、また、知識や経巻に従わなければ、とても信じ難いことである。このことを「生々をつくして参究すべし」と書かれたのである。
/「漿水ショウスイ」(飲み水)とは、参禅学道の時に用いる濃漿コンズ である。「漿水」のかわりに「銭」を「かへす」という義(意味)があってはならない、「かへさず」という義があるべきである。
仏性明見(仏性が明らかに自覚される)と言い、明見仏性(仏性を明らかに自覚する)と言う、「定慧等学、明見仏性」(禅定と智慧を等しく学べば、仏性を明らかに自覚する)の下に、「漿水銭は且く致く、草鞋銭は誰人をしてかかえさしめん」という義がある。「定慧」の二つを、「漿水」と「草鞋」に当てはめる。かえす・かえさないとは言わないで、「たれ人をしてかかえさしめん」と言うのは、仏性に当てるのである。
だから、「定慧」の所で初めて「明見」となるのではないのである。例えば、無仏性はしばらく置く、有仏性はどこから来たのか、ともいうようなものである。悉有は仏性であるという上で、一切の衆生を見るべきである。
/「漿水銭はしばらくおく」といい、「草鞋銭はたれひとをしてかえさせよう」という。漿水銭は沙汰もなく、草鞋銭はかえすようであるけれども、共にかえすところがないので、ただ「自己が仏性であることを自覚するとは一体誰のしわざか」(明見仏性は誰が所作なるぞ)というのと同じ事である。
/「こんづのあたひはしばらくおく」という言葉は「単伝(正伝)する皮肉骨髄」とも心得ることができる。「草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」というのを、「汝、吾が(達磨大師の)皮肉骨髄を得たり」とも心得ることができる。「漿水銭」「草鞋銭」の道理は、「休裏有刀キュウリウトウ」(黙ったところに相手を切る刀がある)のところにあるのである。
/「仏性明見はしばらくおく、明見仏性は誰がなす所か」と言うようなものである。「こんづのあたひはしばらくおく」というのも、「草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」というのも、ただ同じことである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
南泉が、「飲み水代はしばらくおく、わらじ代は誰に還させるのか」と言った。(南泉いはく、「漿水銭且致、草鞋銭教什麽人還《漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麽人をしてか還さしめん》」。)
その言うところは、修行に携帯した多くの「濃漿コンズ(煮沸して作った携帯用の水) の代金はしばらくおくとして、修行で履きつぶした多くの草鞋ワラジの代金は誰に還させるのか」というのである。(いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。)
飲み水代はしばらくおいておくとして、なぜわらじ代は払わなければならないのか、この趣意を幾生もかけて参究すべきである。(この道取の意旨、ひさしく生々をつくして参究すべし。)
飲み水代はなぜしばらく問題にしないのか、心を留め熱心に学ぶべきである。(漿水銭いかなればしばらく不管なる、留心勤学すべし。)
合掌
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