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正3-11-5①『第三仏性』第十一段その5①〔もしわらじ代を返さなかったら、わらじを履きません〕


〔『正法眼蔵』本文〕

草鞋銭ソウアイセンなにとしてか管得する。行脚アンギャの年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。


いまいふべし、「若不還銭、未著草鞋《若し銭を還せずは、未だ草鞋を著かじ》」と。


またいふべし、「両三両」。


この道得なるべし、この宗旨なるべし。


 「黄檗便休オウバクベンキュウ《黄檗すなはち休す》。これは休するなり。


不肯フコウせられて休し、不肯にて休するにあらず。


本色衲子ホンシキノッスしかあらず。


しるべし、休裏有道キュウリウドウは、笑裏有刀ショウリウトウのごとくなり。


これ仏性明見の粥足飯足シュクソクハンソクなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

わらじ代はどうして問題にするのか、無限の行脚の年月にどれくらいののわらじを履き破ってきたのか、というのである。(草鞋銭ソウアイセンなにとしてか管得する。行脚アンギャの年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。)


今言うべきである、「もしわらじ代を返さなかったら、わらじを決して履きません。」と。(いまいふべし、「若不還銭、未著草鞋《若し銭を還せずは、未だ草鞋を著かじ》」と。)〔そんなことはできるわけがない。わらじを履き破ったら、また買い求めて歩いていく。これは仏性の中で生き通しに生きていることを言い、「明見仏性のところに定慧等学の学あるなり」(「自己が仏性であることを自覚するところに、定と慧を等しく学ぶ修行ができるのである)というのと、同じことである。〕


またこう言えばいいであろう、「行脚でどれだけのわらじを履き破ったてきたかと言うが、ほんの二三足だけです」と。(またいふべし、「両三両」。)


わらじ代を誰に還させるのかと問われたら、まずこのように答えるといい。(この道得なるべし、この宗旨なるべし。)


 「黄檗はそこで休んだ」。これはやめたのである。 (「黄檗便休」《黄檗すなはち休す》。これは休するなり。)


黄檗が自分の答えを南泉に許されなかったから休んだのでなく、黄檗が南泉の言ったことを肯ウケガわなかったから休んだのでもない。(不肯フコウせられて休し、不肯にて休するにあらず。)


本物の衲子(禅僧)はそうではない。(本色衲子ホンシキノッスしかあらず。)〔本当にわかったものは、休んでもものを言っている。ここは黙って返事をしているというわけです。〕


知るといい、「休みの中に言うことがある」とは、「笑いの中に刀がある」というようなことである。(しるべし、休裏有道キュウリウドウは、笑裏有刀ショウリウトウのごとくなり。)〔単に言うべき言葉がなくて言わないでいるのではない。〕


この「便ち休す」は、仏性が明らかに自覚されること(仏性明見)に大いに充足(粥足飯足)している姿なのである。(これ仏性明見の粥足飯足シュクソクハンソクなり。)〔「便休」の姿がそのまま仏性である。〕


                         合掌


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