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国王や大臣は、多くこの奥深い家風を伝えている『第十六行持』16-13-3



 〔『正法眼蔵』原文〕

 尸子曰、「欲観黄帝之行、於合宮。欲観堯舜之行、於総章。

黄帝明堂以草蓋之、名曰合宮。舜之明堂以草蓋之、名曰総章」。                         《尸子シシ曰く、「黄帝の行を観んと欲はば、合宮ゴウキュウに於いてすべし。堯舜の行を観んと欲はば、総章に於いてすべし。黄帝の明堂メイドウは、草を以て之を蓋く、名づけて合宮と曰ふ。舜の明堂は、草を以て之を蓋く、名づけて総章と曰ふ」》                                


 しるべし、合宮・総章はともに草をふくなり。

いま黄帝・堯・舜をもてわれらにならべんとするに、

なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋ソウガイを明堂とせり。


俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大観タイカンを所居ショコに擬ギせん、

懺愧ザンキすべきなり。


古人の樹下ジュゲに居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所住なり。


黄帝は崆峒道人広成クウトウドウニンコウセイの弟子なり。

広成は崆峒といふ岩のなかにすむ。


いま大宋国の国王大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。              



〔『正法眼蔵』私訳〕

尸子シシ(戦国時代の人)は言う、

(尸子曰く、)

「黄帝の行いを見たければ、合宮(政務堂)を見るといい。堯や舜の行いを見たければ、総章(政務堂)を見るといい。黄帝が政務を執った堂は草で葺かれ、合宮と言う。舜が政務を執った堂も草で葺かれ、総章と言う」。

(「黄帝の行を観んと欲はば、合宮に於いてすべし。堯舜の行を観んと欲はば、

総章に於いてすべし。黄帝の明堂は草を以て之を蓋く、名づけて合宮と曰ふ。

舜の明堂は、草を以て之を蓋く、名づけて総章と曰ふ」。)                                   


知らなければいけない、合宮も総章も、どちらも草で葺いたものである。今、黄帝や堯や舜を我々と比べようとするなら、天地の隔たりどころではない。なんといっても、彼らは草葺きの堂を政務堂としたのである。

(しるべし、合宮、総章は、ともに草をふくなり。いま黄帝、堯、舜をもて、われらにならべんとするに、なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋を明堂とせり。)                     


俗人でさえ草屋に住んだのに、出家人がどうして高大な建物に住もうとするのか、恥ずべきことである。昔の人が大木の下に住み、林の中に住むことは、在家も出家も大切にする住まいである。

(俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大観を所居に擬せん、懺愧すべきなり。古人の樹下に居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所住なり。)                            


黄帝は、崆峒山の道人広成の弟子である。広成は崆峒という岩窟の中に住んでいた。


今、大宋国の国王や大臣は、多くこの奥深い家風を伝えているのである。

(黄帝は崆峒道人広成の弟子なり。広成は崆峒といふ岩のなかにすむ。

いま大宋国の国王、大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。)   



           合掌


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