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脇尊者は生涯脇を寝床につけることがなかった『正法眼蔵第十六行持』16-4-1

〔『正法眼蔵』原文〕

第十祖波栗湿縛尊者ハリシバソンジャは、一生脇不至席イッショウキョウフシセキなり。


これ八旬ハチジュン老年の辨道ベンドウなりといへども、

当時すみやかに大法を単伝す。


これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、

わづかに三箇年の功夫なりといへども、三菩提サンボダイの正眼ショウゲンを単伝す。


尊者の在胎六十年なり、出胎シュッタイ白髪なり。                          

誓不屍臥、名脇尊者。乃至暗中手放光明、以取経法。      

《誓って屍臥シガせず、脇尊者キョウソンジャと名づく。

乃至暗中に手より光明を放って、以て経法を取る》     


これ生得ショウトクの奇相なり。                             

脇尊者、生年八十、垂捨家染衣。城中少年、便誚之曰、

「愚夫朽老、一何浅智。夫出家者、有二業焉。一則習定、

二乃誦経。而今衰耄、無所進取。濫迹清流、徒知飽食」。    

《脇尊者、生年ショウネン八十にして捨家染衣シャケセンネせんと垂ス。城中の少年、

便ち之を誚セめて曰く、「愚夫朽老グフキュウロウなり、一ヒトエに何ぞ浅智センチなる。

夫れ出家は、二業ニゴウ有り。一には則スナワチ習定シュウジョウ、二には乃ち誦経ジュキョウなり。

而今イマ衰耄スイモウせり、進取シンシュする所無けん。

濫ミダりに清流に迹アトし、徒イタズラに飽食ホウシキすることを知らんのみ」。》                                   


時脇尊者、聞諸譏議、因謝時人、而自誓曰、「我若不通三蔵理、

不断三界欲、不得六神通、不具八解脱、終不以脇而至於席」。  

《時に脇尊者、諸々の譏議を聞いて、因みに時の人に謝して、而シカも自ら誓って曰く、

「我若モし、三蔵サンゾウの理を通ぜず、三界の欲を断ぜず、

六神通ロクジンツウを得ず、八解脱を具せずば、終に脇を以て席に至ツけじ」。》                                                



〔『正法眼蔵』私訳〕                         

第十祖波栗湿縛バリシバ尊者は、生涯脇を寝床につけることがなかった。

尊者は八十歳になってからの修行であったが、その時すみやかに、

正法眼蔵涅槃妙心をそっくりそのまま受け継いだ。

(第十祖波栗湿縛尊者は、一生脇不至席なり。

これ八旬老年の辨道なりといへども、当時すみやかに大法を単伝す。)                                  


月日を無駄に過ごさなかったことにより、およそ三年の坐禅精進であったが、

阿耨多羅三藐三菩提の正法眼蔵涅槃妙心をそのままそっくり受け継いだ。

尊者は、母の胎内に六十年いて、母の胎内から出た時はすでに髪は真っ白であった。

(これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、わづかに三箇年の功夫なりといへども、

三菩提の正眼を単伝す。尊者の在胎六十年なり。出胎白髪なり。)       


〔出家した時に、これからは〕死人のように横になって休むことはしないと誓ったために、当時の人は脇尊者と呼んだ。

また、暗闇の中で、手から光明を放ち、どのお経でも自由に取ることができた。

これは生まれながらの不思議なすがたであった。

(誓って屍臥せず、脇尊者と名づく。乃至暗中に手より光明を放って、以て経法を取る。

 これ生得の奇相なり。)                 


脇尊者は、生年八十歳になって出家しようとした。

城中の若いものたちが、これをそしって言った、

(《脇尊者、生年八十にして捨家染衣せんと垂。城中の少年、便ち之を誚めて曰く、)    


「愚かな年老いた役立たずだ、なんて浅はかな考えか。

出家には二つの仕事がある。

一つには坐禅をつとめること、

二つにはお経をそらで誦むことである。

そんなに老いぼれてしまっては、何一つできないだろう。

無駄に清浄な仏弟子の仲間に入って、

することなく徒食することになるだけだ」。

(「愚夫朽老なり、一に何ぞ浅智なる。夫れ出家は、二業有り。

一には則習定、二には乃ち誦経なり。而今衰耄せり、進取する所無けん。

濫りに清流に迹し、徒に飽食することを知らんのみ。」》) 



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