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僧が托鉢でもらってきた食物をいただくわけにはまいりません『正法眼蔵第十六行持』16-3-3

 〔『正法眼蔵』原文〕

 あるとき、仏言ブツゴンすらく、

「なんぢすでに年老なり、僧食ソウジキを食すべし」。     


摩訶迦葉尊者いはく、

「われもし如来の出世にあはずば、辟支仏ビャクシブツとなるべし。


生前に山林に居すべし。


さいはひに如来の出世にあふ、法のうるほひあり。


しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず」。                          


如来称讃しまします。                               


あるいは迦葉、頭陀行持のゆゑに形体ギョウタイ憔悴ショウスイせり。


シュみて軽忽キョウコツするがごとし。


ときに如来、ねんごろに迦葉をめして、半座をゆずりまします。


迦葉尊者、如来の座に坐す。


しるべし、摩訶迦葉は仏会ブツエの上座なり。


生前の行持、ことごとくあぐべからず。




〔『正法眼蔵』私訳〕

ある時、釈迦牟尼仏は迦葉尊者に言われた、

「あなたはもう年老いているから、〔自分で托鉢に出ず、〕

僧が托鉢でもらってきた食物を食べなさい」。

(あるとき、仏言すらく、「なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし。」)                                


迦葉尊者は答えた、

「わたしがもし如来の出世に出会わなかったなら、

独りで悟りを求める者となって、一生山林に住んだことでしょう。

幸いにも如来の出世に出会え、法の潤いを得ることができました。

そうだといっても、

僧が托鉢でもらってきた食物をいただくわけにはまいりません」。

(摩訶迦葉尊者いはく、「われもし如来の出世にあはずば、辟支仏となるべし。

生前に山林に居すべし。さいはひに如来の出世にあふ、法のうるほひあり。

しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず」。)      


釈迦牟尼仏は、迦葉尊者を称賛された。

(如来称讃しまします。)                  


また、迦葉尊者は、厳しい頭陀の行持のために身体がやせ衰えていた。

(あるいは迦葉、頭陀行持のゆゑに形体憔悴せり。)


他の僧たちはそれを見て軽んじ侮るようであった。

(衆みて軽忽するがごとし。)  


その時に釈迦牟尼仏は、

懇ろに迦葉尊者を招いて、自分の座を半分譲られた。

(ときに如来、ねんごろに迦葉をめして、半座をゆずりまします。)


迦葉尊者は、釈迦牟尼仏の座に坐られた。

(迦葉尊者、如来の座に坐す。)                                    


知らなければいけない、

迦葉尊者は釈迦牟尼仏の会中の第一座である。

(しるべし、摩訶迦葉は仏会の上座なり。)


一生の間の行持を、すべて上げることはできない。

(生前の行持、ことごとくあぐべからず。)


                                     

注:〔 〕内は訳者の補足である。


                       合掌


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