スキップしてメイン コンテンツに移動

三種の衣だけを持ち、ほかの衣は持たない『正法眼蔵第十六行持』16-3-2

〔『正法眼蔵』原文〕

 七者有三領衣、無有余衣。 亦不臥被中

 《七つには、三領衣サンリョウエを有タモちて余衣ヨエ有ること無し。亦被中ヒチュウに臥せず》。                                   


 八者在塚間、不在仏寺中、亦不在人間。 目視死人骸骨、坐禅求道

 《八つには、塚間チョウカンに在んで仏寺の中に在まず、亦人間ジンカンに在まず。

 目に死人の骸骨を視て、坐禅求道グドウす》。         


 九者但欲独処、不欲見人、亦不欲与人共臥

 《九つには、但独処を欲オモいて人を見んと欲はず。亦人と共に臥せんと欲はず》。                                


 十者先食果蓏、却食飯。食已不得復食果蓏

 《十には、先に果蓏カラを食ジキし、却オワりて飯ハンを食す。食し已オワりて、

 復マタ果蓏を食することを得ず》。                         


 十一者但欲露臥、不在樹下屋宿

 《十一には、但露臥を欲って樹下屋宿オクシュクに在まず》。      


 十二者不食肉、亦不食醍醐。麻油不塗身

 《十二には、肉を食せず、亦醍醐ダイゴを食せず。麻油マユを身に塗らず》。                                    


 これを十二頭陀ヅダといふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。

如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。  



〔『正法眼蔵』私訳〕                            

七つには、三種の衣(袈裟)だけを持ち、ほかの衣は持たない。

また夜具の中で寝ない。

(七つには、三領衣を有ちて余衣有ること無し。亦被中に臥せず。)                    


八つには、墓場に住んで寺の中に住まず、また人里にも住まない。

目に死人の骸骨を見て無常を観じ、坐禅をして修行する。

(八つには、塚間に在んで仏寺の中に在まず、亦人間に在まず。目に死人の骸骨を 視て、坐 禅求道す。)                                            


九つには、ただ独りでいることを願い、人に会おうと願わない。

また、人々と共に寝ようと願わない。

(九つには、但独処を欲いて人を見んと欲はず。亦人と共に臥せんと欲はず。)           


十には、まず木の実や草の実を食べ、その後でご飯を食べる。

食べ終わってから、また木の実や草の実を食べない。

(十には、先に果蓏を食し、却りて飯を食す。

 食し已りて、復果蓏を食することを得ず。)


十一には、ただ露天で寝ることを願い、

樹の下の小屋には住まない。

(十一には、但露臥を欲って樹下屋宿に在まず。)                                              


十二には、肉を食べず、また乳製品を食べない。

ごま油を身に塗らない。

(十二には、肉を食せず、亦醍醐を食せず。麻油を身に塗らず。)                          


これを十二の頭陀行と言う。

摩訶迦葉尊者は、よく一生の間退転することなくやり通した。

(これを十二頭陀といふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。)


釈迦牟尼仏の正法眼蔵涅槃妙心を正伝した後も、

この頭陀行をやめることがなかった。

(如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。)         



                       合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...