〔『聞書』私訳〕
/「他国玲跰」とは、つまり、酔っていても衣の裏に宝珠があったように、そのままにしておくことも「行持」と言うのである。「真父の宝財なほ失誤するなり」とは、世間で思うような、失い誤ることではない。「真父」の珠は、衣の裏に懸かっているのである。
「他国玲跰」の時刻は、三乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)の教えを学んでいた時間である。
〔『抄』私訳〕
「いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡 それ行持にあらざるなし」とある。
つまり、「行持」でないものは一つもないところをこのように言うのである。
「このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、真父の家郷に宝財をなげすてゝ、さらに他国玲跰の窮子となる(以下略)」とある。
これは、いかなることも「行持」であるからには、ただ何もせずにじっとしているのも「行持」であるという間違った心を、多くの人が起こすのを、それは邪心であると戒められるのである。何もせずにじっとしているのも「行持」であるという考え(凡夫成仏を唱えた本覚法門の考え)を、しばらく、「なほこれ行持を心ざすににたれども」と言うのである。
「他国玲跰」の時節も、確かに行持の外ではないけれど、この時節は「真父の法財」をまだ得ていないのであり、今の喩えにもっとも相応しいのである。
合掌
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