〔『聞書』訳〕
/「修して証すと云もの因果に堕在す」と言う。 ただ、因を待たない果であるとき(修証すなわち因果同時現成のとき)は、決して因果に堕在しない。大乗の因は諸法実相である、大乗の果も諸法実相であると言う。 又、空華亂墜のように心得るべきである。
/「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す」 という「この行持の功徳」は「自」でもなく「他」でもない。一地に生ずる物、一雨が降り注ぐ道理がこのようであると心得てはならない。
「 かふむる」「功徳」とは天地がそのまま功徳なのであり、大地有情同時成道がこれである。「十方の匝地漫天、みなその功徳をかふむる」と言い、「他もしらず われもしらずといへども、しかあるなり」と言うからである。
/「仏非」とは、非心非仏(心に非ず仏に非ず)の「仏非」である。諸法ごとに、収まらないということはない。「仏住し、仏非し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり」と言う外に、仏行とも、仏坐とも、 仏臥とも、仏身とも、仏口・仏鼻・仏足とも言うようなことである。だから、諸法が収まらないということはないのである。
/「日月星辰」「大地虚空」は、行持によってあると言うのは、
日頃の考えとは相違するのである。
〔『抄』私訳〕
「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天、みなその功徳をかふむる。他もしらずわれもしらずといへども、しかあるなり」とある。
この「われ」は「行持」の「われ」である。
「このゆゑに諸仏諸祖の行によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり」とある。
これは、「諸仏諸祖」というのも、「われら」というのも、ただ同体であるからこのように入れ違えて釈されるのである。
「諸仏諸祖」「われら」「行持」は、ただ一体であり引き離すことができない道理を、このように入れ違えて言われるのである。
「これによりて、仏々祖々、仏住し、仏非し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり」とある。これは、「行持」の上の「仏々祖々」「仏住」「仏非」「仏心」「仏成」等の道理は、「断絶」しないと言うのである。
「この行持によりて日月星辰あり、行持によりて大地虚空あり、 行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり」とある。
「日月星辰」を「行持」と言う。「大地虚空」も「行持」である。あるいは、「依正身心」「四大五薀」等、みなこれは行持であると言うのである。
「行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。過去・現在・未来の諸仏の行持によりて、過去・現在・未来の諸仏は現成するなり」とある。
「過去」の「行持」であるときは、全て「過去」の「行持」である。「 現在」も「未来」も同じである。 三世がみな「行持」であるが、「過去」の「諸仏の行持」のときは,「現在」「未来」は隠れるのである(一法究尽)。これはすなわち「行持」の上の三世だからである。
合掌
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