スキップしてメイン コンテンツに移動

仏祖の大道は必ず無上菩提の行持がある『正法眼蔵第十六行持』16-1-1b

〔『聞書』私訳〕                            

/「無上の行持あり、道環して断絶せず」とある。

これは、我々にとってどういうことか。「しばらくの間隙あらず、行持道環なり」というのは、仏祖の上においてだけと、他人ごとにと思うのは、どうか。


虚空蔵菩薩が世に出られたときは、山も樹もはっきりと透けて見え、海慧菩薩のときは、世界は海と見え、仏が成道したときは、大地有情同時成道と言われたが、初祖達磨大師が航海して、法を伝え迷情を救う大悲より生じた行持の時刻と、我々の行持を隔ててはいけない。


善悪、苦楽の違いはあっても、必ず虚空蔵菩薩・海慧菩薩の時と同じなのである。これらを聖者の境界に譲って、我々の行持は叶わないと言ってはならない。


得道のときに功徳があるなら、教行のときというのも、証(悟り)を教え行ずるので同じである。吾我(自分)を取り上げなければ、証(悟り)の時である。            


/教行(教えに従って修行する)を「行持」と思うのは世の常である。教は口業(口の行為)の説、教であればただ言葉で説き示すものと思うなら、この口業は親切ではない。


説得一丈(一丈を説き得ること)は、行取一尺(一尺を行ずること)に及ばないと言う。〔しかし、何も説得が行取に劣るわけではない。そこに勝劣高下を設けないのが宗意であるから、〕ただ、説も尽きず、行も尽きない。そこに不染汚(何ものにも汚染されない)の説・行が成就するのである。


口は説と黙、身は行、意の止観(瞑想)は念である。口である時節は、大地も虚空もみな口であり、遍く三千大千世界(宇宙)を覆う広く長い舌である。眼睛を説くときは、ただ眼睛の出没と習う。 口業と言うときは、 頂寧の説法も眼睛の説法も口業と言うのである。 今の「行持」の行は、「行仏」の行に習うべきである。教行証は一体であるからである。                                      


/「無上の行持あり」とは、この「無上」は、一切の世界にわたり、「無上」は仏界、最下は地獄界である。従って仏道を無上道とも、無等々とも言うのである。 もっとも、これが下に対する意味合いであれば本意ではない。この「無上」は下に対しない上である。


又、この「無上」には下もないのである。ただ、上がないなら下はなおないと思われる。けれども、権教(方便の教え)と実教(真実の教え)を超越した「無上」である。 法華の時の「無上」は、「十方佛土中、唯有一乗法」であるから上下はない。教行証である証は上下がない。教行に待たれる証にはなお下があるのである。                     


/そもそも、権教の上には実教があっても、実教の上には上はあるはずがない。実教には無下の功徳がある。上はなくても下はあるなどと言うのは、学道に未熟である。      


/「道環して断絶せず」とは、教行証が一体である道理を「道環」と言うのである。菩提に至る証は、船もいかだも必要としない。「発心・修行・菩提・涅槃」はみな「道環」である。「発心」の時と「修行」の時とが別でないことを「道環」と言うのである。     

                                                      

 /「発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず」とは、「発心・修行・菩提・涅槃」の在り様を知らないで、あるいは、春夏秋冬の四季にたとえ、或いは、東西南北の方角にたとえることがあるが、「初心時便成正覚」(初発心の時、すなわち正覚を成ず)と心得るべきである。《傍注:常には初発心時と言う。》


発心・修行・菩提・涅槃の四種の順序を経ないで、〔どこから入っても成仏する、発心すれば発心位において成仏し、修行すれば修行位において成仏する、〕四種の仏が重なっているとも心得る在り様である。絶え間なく続いていると心得てはいけない。四種が同じ種類であり「間隙スキマ」がないのである。          



〔「抄」私訳〕                           

「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環ドウカンして断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙ケンゲキあらず、行持道環なり」とある。              


この「行持」の「行」は、教行証(教えに従い修行し悟る)の「行」ではない。証を期待しない「行」であるからである。つまり、「仏祖」をもって「行持」と呼ぶのである。「道環」とは、始めと中と終わりに関わらないことである。「発心・修行・菩提・涅槃」ということは、「しばらく」も「間隙」がない道理(修証不二)である。  


「このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曾染汚の行持なり」とある。まさに、この「行持」の道理は、「自」「他」の「強為」がなく、「不曾染汚」の「行持」なのである。     



                   合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...