〔『聞書』私訳〕
/「雪峰真覚大師」の段。
「僧堂前、与諸人相見了也」とある。
以前、すでに「光明」を「僧堂・仏殿」と言い、「人々尽有光明」と言った。今の「諸人相見」の「諸人」は以前の「人々」であるから、「相見」と「通身是眼睛」は同じである。ただ、「雪峰」と「雪峰」の「相見」である。
〔『抄』私訳〕
「雪峰山真覚大師、示衆云、僧堂前、与諸人相見了也《僧堂前に、諸人と相見し了れり》。
これすなはち雪峰の通身是眼睛時なり、雪峰の雪峰を覰見する時節なり。僧堂の僧堂と相見するなり」とある。
これは「僧堂前」で「雪峰」と「諸人」が「相見」すると思われるが、
それでは「人々」も「僧堂前」も各別になる。
結局、「雪峰の通身是眼睛なり」ということである。
この「相見」の道理は、「雪峰が雪峰を覰見」し、「僧堂が僧堂と相見する」
道理に落着するのである。
このように言えば、能所彼此の相対を超越するのである。
合掌
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